ライターズ(Writers)〜「書く」ことを職業にした人々~ 第3回 吉村智樹(ライター / 放送作家)中編

ライターズ(Writers)〜「書く」ことを職業にした人々~ 第3回 吉村智樹(ライター / 放送作家)前編

第3回目のゲストは、ライターで関西のテレビ番組では放送作家としても活躍中の吉村智樹さん。「街歩き」「食べ歩き」「路上観察」などを得意ジャンルとし、大阪に溢れる面白看板などを収集した『VOWやねん!』『VOWでんがな』『VOWやもん!』(関西版VOW三部作 宝島社)で知られる。放送作家としては明石家さんま司会の『痛快!明石家電視台』(毎日放送)や、『たかじんNOマネー〜人生は金時なり〜』(テレビ大阪)など関西発の情報番組、バラエティ番組の構成に長く携わる。著書には他に『吉村智樹の街がいさがし』(オークラ出版)、『恐怖電視台 本当にあった業界の怖い話 芸能界編』(竹書房)、『ビックリ仰天!食べ歩きの旅 西日本編』(鹿砦社)など。現在は『LIFE〜夢のカタチ〜』(朝日放送テレビ)や『京都浪漫〜美と伝統を訪ねる〜』(KBS京都)等のテレビ番組の構成に関わりながら、NTTのニュースサイト「いまトピ」、リクルート・ホットペッパーの「メシ通」、まぐまぐの旅行ニュースサイト「TRiP EDiTOR(トリップエディター)」他、ウェブ媒体のライティングに意欲的に取り組んでいる。

関西で最も先端的だった編集プロダクション『繁昌花形本舗』に参加、大活躍の日々へ

吉村智樹は大阪芸術大学在学中からミニコミの発行を始め、それが評判となり関西ローカルの情報誌『プレイガイドジャーナル』や『Lmagazine(エルマガジン)』(京阪神エルマガジン社)から原稿依頼が来て、学生ライターとしての活躍も始める。「原稿料は、当時の方が高かったくらい(涙)」とは本人は言うが、そんな彼の前に現れたのが、関西の大スター・中島らもだった。その存在に憧れ過ぎた吉村青年は、中島がかつて印刷会社の営業マンだったことから、自分も印刷会社に就職ししまうのだが──。
「でもそうやって印刷会社に就職したんですけど、務まらなかったんですよね」と吉村さんは回想する。

少しでも出版に関わった人なら分かると思うが、印刷会社というのは部数や印刷物のサイズ、文字の校正、色校正と非常に細かい確認事項がある。しかも、例えばスーパーのチラシで1,000円の商品を「100円」と間違って表記してしまっただけですべて刷り直しになるので担当者の責任は重大である。お洒落なカフェを紹介するページに載った電話番号が間違っていて反社会性力団体の事務所に繋がってしまい、恐いお兄さんが押しかけて「誠意を示せ」と恐喝されたというような都市伝説は各所に存在する。若き日の吉村青年もそんな失敗をする。ところが、災い転じてそれが彼のライター、放送作家への入口になる。

「『花形文化通信』というフリーペーパーがありまして、サブカルチャーのフリーペーパーです。その印刷を僕が請け負ったんです。で、大失敗しまして、裁断ミス、部数ミス、責任を取って印刷会社を辞めて、『繁昌花形本舗』という発行元の編集プロダクションに謝りに行った。そしたら、『人手が足りないから手伝いにきてくれないか』ということになった。ええ、すごい幸運というか、数奇な運命というか」
「『花形文化通信』というのは、当時の大阪のサブカル好きの若者なら誰でも知ってるペーパーでした。文化的な匂いのするレコード屋さん、古本屋さん、雑貨店、洋服屋さんには大抵置かれていた。つまりアンテナの高い、ちょっとトンがった若い男女が通うところですよね。僕の同期が嶽本野ばら(作家、映画化もされた小説『下妻物語』で知られる)で、彼が後に編集長になります。嶽本野ばらが編集長ということで、どれだけ危ないモノだったかが分かると思いますが(笑)」

ちなみに嶽本野ばらは同誌に「それいぬ─正しい乙女になるために」というエッセイを連載。それが女性読者に熱狂的に支持されたことから、連載をまとめた同名のエッセイ集『それいぬ─正しい乙女になるために』(国書刊行会)が初の著書となる。

「『花形文化通信』もそうなんですが、その『繁昌花形本舗』という編集プロダクション自体がとてもトンがった存在でした。元々は『プレイガイドジャーナル』や『Lmagazine(エルマガジン)』とか、関西サブカルチャーを生み出したような雑誌に関わっていた人たちが作った会社なんです。なので色んな雑誌の面白いページを編集していた。関西版の『an』やマガジンハウス大阪支社が出していた『Hanako WEST』(『Hanako』の関西版)とか、当時はまだ出版に予算が潤沢にありましたから、そういう若者が読みそうな雑誌の尖ったページを全部任されていた。まあ逆に言うとそれは、景気が悪くなると真っ先になくなるページなんですけど(笑)。特に東京の『Hanako』と関西の『Hanako WEST』は版元は同じでデザインも一緒ですけども、内容はまったく違ってたんです。僕は忘れもしない、『Hanako WEST』で〈イイ女なら大喜利ぐらいできないとネ〉というキャッチコピーの元、20ページくらいの大喜利特集を組んだことがあった。大阪でしかあり得ない誌面作りですよね」

「『繁昌花形本舗』はペーパーや雑誌だけでなく、関西カルチャー全般を担うような存在だったので、あらゆるジャンルから仕事のオファーがあった。なので僕もテレビ、ラジオ、広告、舞台、イベント、展示会の構成、デザイン、作詞作曲、もう、やれるものは手当たり次第になんでもやりました。ラジオ番組のパーソナリティまでやらせてもらいました。FM大阪の早朝音楽番組です。モダンチョキチョキズ(現在女優として活躍する濱田マリがメインボーカルを務めたエンターテインメントバンド)に参加したのもその頃です。正直『売れる』ということだけに関して言えば、この時期が人生のピークやったと思います。逆に言えば20代で一気に交流や人脈が広がったんで、ちょっとイキった『ギョーカイ人』になってたかもしれません。天狗になってるつもりはなかったんですが、給料制ということがたんだん腑に落ちなくなって、『オレ、フリーでもやっていけるんちゃうかな』と退社するんです。結局『繁昌花形本舗』は2年くらいいたと思います」

20代の吉村青年がそのように若くして八面六臂の活躍をしたのは、当時の関西では、「ライター」「編集者」「放送作家」「演出家」「プランナー」といった仕事のジャンルが明確に分かれていなかったからでもあるという。
「あの頃の大阪の若者向けテレビ番組には、若者向け雑誌の編集者が構成に参加するという慣例があったんです。テレビ局はサブカルチャーに関する情報やノウハウを持ってなかったので、僕らが呼ばれたわけです。そうやってネタの提供とかをやっているうちに、『コントも書いてみない?』ということになっていって、放送作家をやるようになったんです。だから僕の場合、放送作家デビューとライターデビューとが、フリーになった時でほぼ同時なんです」

こうして吉村智樹は20代にしてライター、放送作家として活躍。『テレビのツボ』(毎日放送・毎週月曜から金曜の深夜・1992年10月6〜1995年9月)という情報バラエティ番組では、構成に名を連ねながら重要な出演者として画面にも登場した。まさに憧れていた中島らもの後を追う活躍を始めたのだ。ところがほぼ時を同じくして、その中島らもは活動のスタンスを変える。1988年秋にアルコール性肝炎で池田市内の病院に50日間入院。この体験をもとに1991年、小説『今夜、すべてのバーで』(講談社)を執筆。同作は第13回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『人体模型の夜』(集英社 1991年)、『ガダラの豚』(実業之日本社 1993年)と次々傑作小説を発表していく。

「僕はあれだけ雑誌が好きな少年だったのに、なぜか不思議なことに、小説というものにだけ何の影響も受けなかったんです。だかららもさんが小説家になっていくにつれ、らもさんのことは相変わらず大好きでしたけど、追いかける理由がなくなったというか、目標にする理由がなくなってしまったんですね。同時に、その頃みうらじゅんさんや根本敬さんが、僕の好きなテイストのことで、むちゃくちゃブレイクされていてました。『うわーっ、いいなあ、憧れるなあ』と思った。みうらさんはいわゆる街の面白いものを見つけてきて、それを写真で紹介する。根本さんは怪しげなレコードを発掘したり、変なオジサンが自主制作で作ったレコードを『タモリ倶楽部』でかけたりしていた。僕も『宝島』の〈VOW〉から始まっているわけで、元々そういう志向は強くあった。でも、それが自分の中で実に『もやっ』としてた。ライター、放送作家と色んなことに手をつけている割には、やりたいことが少しも形になってないという苛立ちがあったんです。それを見事に自分の形にされているお二人が現れて、『ああ、オレがやりたのはこれなんや』と。お二人の活動の場が東京ということもあって、上京する決意のひとつになったんです」

「大阪にいてもこれ以上はないな、というのもありました。業界的にも、自分としても伸びしろがないような気もしてた。東京への憧れは元々ありましたし、まあ、31歳で上京いうのは少し遅かったかもしれない。もう少し若ければ、もっと東京というものにがっつり組み入れたかもしれない。でも今50過ぎて人生振り返ってみると、やはりあのタイミングしかなかったような気もします。大阪にいたまま何となくエラソーな、大御所みたいなオッサンになるよりは、31で新人になれたのはよかったと思うし。おそらくどこにいても、2000年以降の、あの雑誌の不景気で仕事がなくなるというのは、大阪にいたにせよ東京にいたにせよ逃げられなかったでしょうし」

31歳、東京でゼロからの再スタート。そして、大きな時代の変化がやって来た

こうして吉村智樹は上京する。よく、関西の芸人さんは「2度売れなければならない」と言われる。大阪と東京で、だ。当時のライター、放送作家も同じだった。
「そう考えると今の若いライターさんは羨ましいですよね。僕らせいぜいファックスしかなかった時代は、関西の仕事を継続したまま東京に来るなんて絶対に無理だった。放送作家は会議に出ることが仕事みたいなところもあるから、こちらも当然不可能で、関西から離れるということは、関西の番組をすべて降板する、雑誌の連載も全部辞めるということでした。そもそも僕の場合、雑誌では関西のネタを書いていたので、東京に来るということはそれが出来ない。東京でイチから始めるしかない。これは、実は10年後大阪に戻るときも一緒だったんです。2006年の段階ではオウンドメディアなんてなかったですから、また関西でイチからやり直しになるんです。どうにもツイてない世代というか(笑)、だから自分がもっと早く生まれてたら、あるいはもう少し遅く生まれてたらなあなんて、一時期はくよくよ考えてましたね」

しかし、基本的に実力のある人だ。また原稿のテーマとなる「ネタ探し」という点に関しては、そもそも「好き」ということもあるのだろうが、強烈な探求心を見せる人でもある(『ジワジワ来る関西(WEST)』(扶桑社)の巻末にある鼎談の中では、「(街ネタ探しで)がっつり歩いた日にはズボンが1本つぶれますし、靴も3日で1足ペースで履けなくなる」と発言している)。すぐに『週刊SPA!』と、週刊化したばかりの『宝島』の連載が決まる。するとその他、月刊の雑誌からも次々と依頼が舞い込み、最盛期では週刊2誌に月刊12誌の連載を抱える売れっ子ライターになった。ただし、すべてが上手くいったわけではなかった。プライベートでは上京早々離婚することになる。
「最初の妻と結婚したばかりで、八王子にマンションを買って暮らし始めたんです。八王子にしたのは僕が中央線文化に憧れていたので、吉祥寺や西荻に出やすいということ。もうひとつは子どもが欲しかったんです。だから緑が多く環境のいいところにした。ところがこれがマズかった。妻は大阪の生野区というところの出身で、言わば浪速のド下町です。コリアタウンがあったり、〈全国で最も外国人比率が高い行政区の一つ〉だそうで、東京で言えば新大久保みたいなところでしょうか。そんな妻にとって八王子は、最果ての地のように淋しかったそうです。夜は真っ暗、ネオンサインのひとつもない。オマケに周りは誰もが東京弁、友達もいない、しかも旦那は多忙だと言って出かけまくっている。離婚を切り出されても仕方なかったです」

そしてもうひとつは時代の変化だった。
「僕が上京したのが1996年ですから、ウインドウズ95(Microsoft Windows 95)が出てすぐだったでしょうか。その頃はまださほど普及してなかった気もするんですが、2000年年代に近づくにつれ、出版社から『パソコンで入稿してください』と言われるようになった。これがサッパリ分からなかったんです、ついていけなかった。それまではワープロで原稿を書いて、ファックスで送ればことは済んだ。それがワープロで打ったものを一度フロッピーディスクに入れて、それを今度はパソコンで読み込んで、さらにワープロソフトの〈一太郎〉に貼って送るというようなことをやるようになった。ただしこれが出来るようになったのはずいぶん先です。最初はそもそもインターネットというものすら理解出来ない、めちゃくちゃアナログな人間で、それでどんどん原稿が遅れて、〆切が守れなくなってきた。それでおそらく『アイツは〆切を守らないライターだ』という評判が立ったんでしょう、次第に仕事が減り始めるんです」

めちゃくちゃアナログな人間で、と吉村さんは言うが、その時代、パソコンでつまずいた人は多かった。いや、むしろつまずかなかった人の方が少なかったのではないか。若い人には想像がつかないと思うけれど、90年代、パーソナル・コンピュータというものはとても難しかった。会社で働いている編集者は業者がウインドウズを設置してくれてネットワークを組んでくれただろう。何か困ったことがあっても部署内には必ずパソコンに詳しい人が1人はいただろうから、その場で聞ける。しかしたった一人、自宅で仕事をしているフリーランスはそうはいかない。
僕の場合Macだったが、Macintosh LC630を買ったのが1992年。しかし何をどうしたらいいのかサッパリわからず、詳しい編集者が親切にもわざわざ自宅まで来てくれて、セッティングとインターネットの接続などをすべてやってもらった。それでもまったく使いこなせず、Macは置物と化し、吉村さんと同じように原稿はワープロで書き、ファックスで送るということをずっと続けていた。その後90年代後半、Power Macintosh7500を中古で買った頃から何とか使い始めたものの、何の不自由もなく原稿が書けてメールで送れるようになったのは、1999年にiMac DVを買ってから、つまりほぼ2000年代になってからである。

「ネットと言っても当時は常時接続でもなかったし、テレホーダイすらまだなかった時代。1度電話回線で繋いでから、原稿を送るというような非常にややこしい作業をして。それと僕の場合は写真を撮るネタが多いわけですが、デジカメすら持ってなかった。フィルムを現像して紙焼きして、そうなるとスキャナーというものが必要だと。スキャナーって何やろ? と、調べてみるとムチャクチャ高い(笑)」
そう、スキャナーは安くても10万円以上。デジタルカメラも2000年に発売されたCANNONの初代「IXY DIGITAL」が、調べてみると定価74,800円。僕が初めて買ったデジカメは2001年発売の後継機種IXYデジタル200だったが、ヨドバシカメラで5万円弱、「こんなに高いのか!」と驚いたことを今も覚えている。

吉村さんや僕はそれでも何とか乗り切ったが、この時代、手書きからキーボードへ移行出来ず、辞めていったライターも決して少なくない。いや、フィルムからデジタルに対応出来ず辞めていったカメラマン、パソコンによるDTP(デスクトップ・パブリッシング)が出来ずに辞めていったデザイナーはもっと多かったはずだ。出版社自体もアナログからデジタル入稿に移り変わって大混乱したし、DTPになって廃業に追いやられた写植会社や個人営業の写植オペレーター、小規模な製版工場などはおそらく無数にある。今思えば時代の大転換期であった。
ただし、奥さんと離婚した吉村智樹は高円寺に引っ越し、しばらくは順調に活躍を続けた。「高円寺時代は、別れた妻には申し訳ないけれど、第二の僕の青春が始まるんですね。すごく楽しかった」と語る。そう、街というものがとことん好きな人なのだ。

「さっき言ったように八王子に住んだのもギリギリ中央線沿線と言えたからです。国立、国分寺、三鷹、吉祥寺、阿佐ヶ谷、高円寺、中野、『宝島』の中央線特集で憧れていたロックの聖地、サブカルチャーの聖地、それが一本の路線で繋がってる。その本拠地みたいなもんですよね、高円寺って。不思議な雰囲気のレコード屋さん、個性的な雑貨屋さん、品揃えのいい本屋さん、ライブハウスもクラブもヤマほどある。ラウンジという文化があることも知った。大阪で〈ラウンジ〉と言ったらオッサンたちがお姉ちゃんはべらせて酒飲むとこですけど、こちらは若者たちがソファーにゆったり座って、渋谷系の音楽を聴きながらチルアウトするという。そんなお洒落な文化が東京にはたくさんあって、お洒落な女の子とも知り合えて、クラブに行って踊って、自分でもDJやったり。しかも週刊誌連載してるもんだからお金はヤマほどありましたんで、使っても使っても入金されるんですよ。あんな経験はもう二度とないでしょう。僕自身はお酒を飲まないので、高円寺界隈で知り合った友達に奢りまくって。レコードを爆買いして、それをまたクラブでかけてと、はしゃいでました」

「ところがそうイキってたらバチが当たるんです。クラブでDJやってて、調子に乗ってイイ格好しようとフロアでブリッジしたんです。そうしたら『バキッ』といった。ぎっくり腰です。高円寺の『UFOクラブ』というところでした。そのときは何とか誤魔化して、『オレ、今日は帰るわ』とか言って、這うようにして自宅に戻ったんですけど、そこから1週間くらい動けなくなった。で、僕だけかもしれませんけど、ぎっくり腰って癖になるんですよね。何かあるごとになって、その度に4日くらい動けなくなるという」
「ひどい時は自宅に戻って玄関で靴を脱ごうとしたとき倒れたことがあった。立ち上がることはもちろん這うことも出来ない。汚い話ですがもう垂れ流しで、2月で冬の底みたいな時期でしたから、大げさじゃなくこのまま凍死する思いました。たまたま風俗嬢をやってる女友達がいたんです。彼女とかじゃなかったんですが、『仕事で終電逃したらウチに泊まってエエよ』と合鍵を渡してたんです。偶然、その娘が来て助かった。結局、ぎっくり腰が関西へ帰る直接的な理由になるんです。あまりに辛いので病院に行ったら、お医者さんに『車椅子を貸すことはできますけど、押す方はおられますか?』と聞かれた。遊び呆けていたわりには、そんな親友がいたわけでもなく、恋人がいたわけでもなく、そこまで頼れる編集者もいない。そうなるともう、両親のいる大阪に帰らざるを得ない、という結論に達したんです」

「正直その頃、東京生活も10年目くらいになると仕事も本当に減っていて、というのは雑誌自体がなくなっていましたから、そもそも書く場もない。かと言ってまだウェブで原稿料を出してくれるという時代でもなかった。だからバイトもしてたんです、お風呂屋さんの掃除とかやってました。雑誌は2、3社くらいでしたが、それでも関西へ帰るということになるとゼロなので、不安もありましたけど、東京で決して正しい道筋を歩んできたわけではないという感覚もあったので、まずは関西に戻って考え直そうと。自分の人生を見つめ直して、もしかしたらライターという仕事自体を辞めるかもしれないなと考えてました」

先に2000年代に入ると、パソコンやインターネットが誰にでも容易に扱えるようになったと書いた。それと同期するように、多くの雑誌が廃刊・休刊になり、吉村さんだけでなく決して少なくない数のライターが仕事を失った。僕もその一人である。2004年にmixi(ミクシィ)がサービスを開始、日本にもソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)のブームが上陸し、スマートフォンが普及し始める。
僕は90年代の終わり、雑誌を中心に扱っている地方の大型書店を取材したことがあった。その時店長が言ったのは「私たちの商売は〈ひまつぶし〉を提供しているんだと思う」ということだった。パソコンやスマホ、SNSが〈ひまつぶし〉のツールに成り代わったとき、多くの雑誌が存在理由を失ったのだと思う。

東京を離れ故郷に戻るというのは、「夢をあきらめる」ということだった

こうして吉村智樹は関西に戻った。両親が高齢になり、住んでいた団地の部屋が4階にも関わらず古い建物なのでエレベーターがなく、階段の昇り降りが大変だからと2階にもう一部屋借りていた。今、古い団地はどこもそうだが、空き部屋だらけなのだという。吉村さんは、その2階の部屋に住まわせてもらうことにして、再出発することになった。41歳だった。

「これが皮肉なことに、大阪へ帰った途端ぎっくり腰が出なくなったんです(笑)。それでまずは仕事を探してみようと。ただ最初に言ったように実家は山を切り崩した団地なので、駅からムチャクチャ遠いんですよ。営業に行くのも不便なので、それで天王寺区にある四天王寺という街へ引っ越した。これは『SUUMOタウン』というサイトの〈人生のやりなおしをさせてくれた街、大阪「四天王寺」〉という記事にも書いたんですが、僕にとって東京を離れ故郷に戻るというのは、同時に『夢をあきらめる』という意味がありました。一方の関西は何しろ10年経ってるわけですから、僕なんて浦島太郎状態です。かつて付き合いのあったところは全部門前払いでした。知ってる人がもう誰もいなかったり、あるいは、いても偉く成りすぎていて、誰かを採用するとかいう次元ですらないという。中には僕のことを『後ろ足で砂をかけて東京に行った』と感じていたらしい人もいて、『何しに来たん、今さら』と言われて追い返されたりもした」

「ただ、〈四天王寺〉というお寺は、聖徳太子が建立したとされる日本仏法最初の官寺です。そんな御利益があったのか、まったく知らないテレビの制作会社に営業に回ったら驚くほど反応がよくて、番組の構成が週に5本、トントントンと決まって、さらにスポーツ新聞の連載まで一紙もらえたんです。後から考えてみると、断られたのはほとんどが出版系でした。『今はあなたに出す仕事はないんですよ』と言われたんですが、あれは『40歳にもなった人に来られても』という嫌味でも、追い返す方便ではなく、本当になかったんだと思います。寝屋川に帰ったのが2006年、四天王寺に移ったのが確か2年後くらい。つまりちょうど10年前ですよね。雑誌は消える一方で、かといってまだオウンドメディアが立ち上がってるわけでもない。ライターにとって一番厳しい時代やったと思います。だからあの時放送作家の仕事をもらえたのは幸運でした。自分の人生、いっつも上手くいかんなあと思ってたんですが、仕事があるというのはやはり素晴らしいことで、捨てたもんじゃないのかなと」

今回、吉村さんにお聞きしたいことのひとつに、放送作家の仕事とは? ということがあった。古くは青島幸男、永六輔といった人々が放送作家をしながら、やがて自らも画面に登場したということ。秋元康が放送作家からそのキャリアをスタートさせたとか、現在でもダウンタウンのブレーンとして知られる高須光聖や倉本美津留のようにテレビでお馴染みの人がいる。しかしその実態は、何となく「コントとかを書く人?」くらいしか分からない。また、若き日の吉村智樹が活躍した、1990年代の関西ローカルバラエティ番組のこともお聞きしたかった。

「ええ、放送作家の仕事が分かりにくいということはよく言われます。というのは守秘義務というか、あまり大っぴらには言いにくい役目を負っているからなんですね」と吉村さんは答える。
「それは観ている人がテレビの中で偶然起こっていると思うことを、お膳立てする役割だからです。分かりやすい例を挙げると少し前、『バイキング』(フジテレビ系列)での上西小百合さんと東国原英夫さんのバトル、あの台本がツイッターに流出して騒ぎになりました。視聴者の方は『何や、台本あったんか』『ヤラセやんけ』と思うかもしれないけど、決してそう一概には言えない。例えば数人のタレントさんが並んでいて、クイズがルーレット方式で誰かに当たるというのがありますよね。ピッピッピッ、ビーと当てられて、ある人は『この問題得意や!』とガッツポーズする、逆に『うわーっ、分からない』と頭を抱える。あれで、誰にどの問題を当てるか、番組的に面白くなるかで、僕らは何時間も会議をするわけです。だから演者さんには見せてない場合もあります。でも制作者は全員、台本を共有して進行を把握しておかなければならない。そうでなければ技術さんとかカメラさんとか、どう撮っていいか分からない。それは設計図ナシで家建てろというみたいなもんですから」

なるほど。じゃあ、上西さんと東さんのバトルでも、進行は決まっているかもしれないけれど、スタジオでは本気で喧嘩してるかもしれない?
「そうです。だって街ブラ番組でタレントさんが『おっ、このお店美味しそうですね』なんて突然入って行くけど、本当にやったら中に絶対に写してはいけない危険な人がいるかもしれない。そもそも音声拾わなアカンわけやから、リハーサルはしとかなダメだし、何やったら偶然入ったはずの店のオヤジが、ココ(胸元に)にピンマイク付けてる場合がある(笑)」
「バラエティ番組というのは、基本3種類の台本の組み合わせによって出来ていて、ひとつは〈スタジオ台本〉、ひとつは〈ロケ台本〉、もうひとつは〈ナレーション台本〉、だからひとつの番組で最低3本の台本を書きます。それに〈コーナー台本〉とか〈再現VTRの台本〉とかが加わる場合もあるので、そうなるとメチャメチャ忙しいんですよ。時間はタイトやし。ただその手法がもう、ネットの時代になって見透かされてるんですよね」

なるほど。だからさっきの上西・東国原の流出みたいなことがネットでは起きるし、最近は街ブラ番組でわざと、タレントさんがお店にアポを取りに行くという場面を写したりしてますよね。
「ええ、だからまったく台本の存在しないユーチューバーには、その点で負けてしまうんですよね。彼らのすごい点は、決していつもいつも画面上で面白いことが起きてるとは限らないんです。でもそれを編集でスピーディに見せ切ってしまう。一方テレビというのは古い感覚で撮っていて、画面右側から撮ったら、次は切り返して左側から撮る、広い画で全体を見せて、次はアップに寄るみたいなカット割りをするわけですね。するとユーチューバーたちが正面からだけの画をどんどん切り込んでいくのに比べ、テレビは余計なものが写り過ぎてしまうんです。YouTubeのテンポに慣れたら、若い人が『テレビなんてトロくさくて観てられないよ』と思うのは仕方ないと思う」

でも、かつて吉村さんが関わっていた90年代のテレビには、面白いものがたくさんあったわけですよね?
「あったと思います。イチ視聴者として観ていても面白かったし、何より若者に向いていたと思います。例えば僕が関わっていた『テレビのツボ』(毎日放送)なんていうのは、どういう番組かというと、その日、テレビでどんなことがあったのを発表する番組なんですよね。ええ、そうです、他局とか関係なく紹介していく。しかもあまりに低予算ということもあって、テロップすら使わず紙に手書きで書いて進行していた。つまりお金がないということを逆手に取って、どれだけやれるかということやと思うんです。それが、そもそもテレビというものの面白さだった。今、面白い番組があったとしても、それは出ている芸人さんが面白いだけで、番組自体が面白いわけではないという気がしますね」

『テレビのツボ』は現在スタンダップコメディアンとしても活躍するぜんじろうが、関西一円でブレイクするきっかけとなった番組であり、視聴率には深夜にも関わらず10%を越えることもあったという。東京で暮らす僕は観たことがなかったのだが、吉村さんのお話を聞いていて思い出したのは、そのぜんじろうの師匠に当たる上岡龍太郎による、『鶴瓶上岡パペポTV』だった。よみうりテレビでは1987年から放映が開始されていたそうだが、東京では翌1988年より日本テレビの深夜に「突然」、もしくは「唐突」にという感じで始まった。初めて観たときの衝撃はあまりに大きいものだった。上岡龍太郎と笑福亭鶴瓶が、ただ単にトークをするだけ。台本はナシ、しかも時間は60分。二人が話したいことを話したいように語り合う。従ってしばしば放送禁止用語も出るが、それは擬音によって隠されるだけで編集されることなく番組は続いていく。
そこに上岡龍太郎と笑福亭鶴瓶という才能だけに限らない、関西という土地の持つ「笑い」に対する貪欲さ、本物志向を見たのは僕だけだろうか? つまり人気者のタレントを多数投入して視聴率を稼ぐわけでもなく、細かくコーナーを仕切って番組にバラエティ感を出すわけでもない。話し言葉(関西でいう「しゃべくり」)だけを純粋に追求することが、シンプルながら奥深いエンターテインメントになる。ジャズに「フリージャズ」というジャンルがあるが、言わば「フリー漫才」。それは関西という長い「笑い」の歴史を持つ風土があったからこそではなかったか。

ただし、それに関して吉村さんはこう語る。「結局そういう手法が現在、キレイにコピー&ペーストされて、全国ネットになってるんですね。近年よく見られる、ひな壇があって芸人さんがワイワイやるというのは、昔、関西の番組が普通にやってたことですから。『アメトーーク!』(雨上がり決死隊のトーク番組、テレビ朝日系列)なんて番組は、僕ら古くからの関西の人間は『あれって関西の番組やんなあ』と言い合ってる。いい番組なんだろうしもちろんトークする芸人さんたちは面白いんやけど、理由として消極的なのが悲しいですよね。お金がないというかつて関西や地方が抱えていた問題が、不況で今や全国に広がったために、手法だけが導入されている。それは決してテレビ的な進化ではないので」

そう言われてみると東京ローカルには今、『鶴瓶上岡パペポTV』の形式だけを借りた深夜番組が数多く見られる。台本がなさそうなトーク、そして放送禁止用語に被せられる「ピー音」。でも、確かに似てはいるのだがどこか違う。あの頃にあった、揺るぎない精神はどこへいったのだろう?


(後編へ続く)
ライターズ(Writers)〜「書く」ことを職業にした人々~ 第3回 吉村智樹(ライター / 放送作家)後編


写真=川上 尚見
取材・文=東良 美季

#CULTURE

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