ライターズ(Writers)〜「書く」ことを職業にした人々~ 第3回 吉村智樹(ライター / 放送作家)前編

WEBマガジンにおいて最も重要と言える「文章」を生み出すライター。彼らが書いた文章は我々の目に触れ心を動かすが、そのプロセスを知る機会は少ない。しかし、彼らにもそれぞれの人生があり、数多の夢や挫折を経て培われたプロフェッショナリズムが存在する。
そこで、ライターによるライターへのインタビューを敢行。インタビュアーは東良美季氏。AV監督、音楽PVディレクター、グラフィック・デザイナーなど様々な職を経験した彼が引き出すライターたちの魅力に触れてもらいたい。


第3回目のゲストは、ライターで関西のテレビ番組では放送作家としても活躍中の吉村智樹さん。「街歩き」「食べ歩き」「路上観察」などを得意ジャンルとし、大阪に溢れる面白看板などを収集した『VOWやねん!』『VOWでんがな』『VOWやもん!』(関西版VOW三部作 宝島社)で知られる。放送作家としては明石家さんま司会の『痛快!明石家電視台』(毎日放送)や、『たかじんNOマネー〜人生は金時なり〜』(テレビ大阪)など関西発の情報番組、バラエティ番組の構成に長く携わる。著書には他に『吉村智樹の街がいさがし』(オークラ出版)、『恐怖電視台 本当にあった業界の怖い話 芸能界編』(竹書房)、『ビックリ仰天!食べ歩きの旅 西日本編』(鹿砦社)など。現在は『LIFE〜夢のカタチ〜』(朝日放送テレビ)や『京都浪漫〜美と伝統を訪ねる〜』(KBS京都)等のテレビ番組の構成に関わりながら、NTTのニュースサイト「いまトピ」、リクルート・ホットペッパーの「メシ通」、まぐまぐの旅行ニュースサイト「TRiP EDiTOR(トリップエディター)」他、ウェブ媒体のライティングに意欲的に取り組んでいる。

かつて雑誌が元気な時代に僕たちは誌面で出会い、25年の年月を経ての初対面となった

〈吉村智樹くんは、巷の「変なもの」コレクターである。その対象は「パチンコ」の「パ」がとれた看板といったオーソドックスなものから、「スピード違反一万円、鳴門灰ワカメ千八百円」などの抱腹絶倒のメッセージ、そして「変な人物」まで及ぶ。そのコレクションの数々はあの珍本『VOW』1〜7(宝島社)の中でたびたび見かけることができる。知り合ったのは十年くらい前で、その当時から奇妙なアンテナの張り具合をした青年だった──〉中島らも『舌先の格闘技』(双葉文庫・1996年)より。

かつて雑誌が元気な時代があった。コンビニエンスストアを中心に売られていた『URECCO』というアダルト誌があり、吉村智樹さんのお名前を初めて認識したのはその誌面だった。1991年から92年頃にかけてのことだと思う。ヌードグラビアを中心にした雑誌だったが、非常に洗練されたデザインで、表紙は無名時代の小池栄子、優香、磯山さやか等が飾っていた。モノクロで8ページほどのコラム欄があり、10人ほどのライターが、アダルトとは特に関係ないサブカルチャー系の連載を持っていた。僕と吉村さんもそこに書いていた。他には永江朗さん、中森明夫さん、マンガ家の花くまゆうさくさんといった人たちがいたはずだ。同誌は最盛期で20万部売れていたというから、そういう誌面作りが許されたのだろう。

中でも吉村智樹さんの書くものは際立っていた。珍品レコードに関する記事が多かったように思う。中古レコード屋の片隅に置かれている、「いったい誰がどんな目的で、こんな曲をこの歌手に唄わせ吹き込んだのだ?」と呆れるようなシロモノについて、である。1998年に鹿砦社から刊行された『まぬけもの中毒』には、渚まさ子の「オッパイちゃんが自慢です!」や、窪園千枝子の「しおふき小唄」などに関するコラムが再録されている。
「実にマガジンライターらしいマガジンライターだな」という印象を持ったのをよく覚えている。マガジンライターとは何か? 直訳すれば「雑誌に書く人」だが、1990年代までの雑誌、特にサブカルチャーマガジンや情報誌というものは、何気なく「パラパラとめくって眺める」ものだった。署名原稿であっても「誰が書いているか」ということはあまり気にしない。しかしそうやって各誌を眺めているうちに、ある日自分が同じテイストの記事を気に入って読んでいることに気づく。そして以前読んで印象深かったコラムの書き手と、今読んでいるものの書き手が合致する。
1970年代から80年代にかけて、僕がまだ純粋なひとりの読者だった頃は、そのようにして何人もの文章の達人と出会ったものだ。高平哲郎、北山耕平、征木高司、亀和田武、呉智英、阿奈井文彦、関川夏央、山口文憲。そして関西でひときわ異彩を放っていた中島らも。吉村智樹も、僕の中ではその系譜の延長線上にいた。

もうひとつ、ちょうど同じ頃、その中島らものエッセイ集『西方冗土 カンサイ帝国の栄光と衰退』(飛鳥新社・1991年)の中に、吉村智樹は登場する。大阪は玉造にある「日の出商店街」にある不気味な店「亜細亜コーヒー」、そこで売られている「ネーポン」なる謎の飲み物の存在を中島らもに教える若者として、である。
中島らもはこう書いている。〈ここに吉村君という一人の青年がいる。吉村君は『月刊耳かき』というミニコミを出し、「海坊主」というバンドをやり、同時に大阪の街角のへんてこな看板を写真に撮っている収集家でもある。この前までは学生だったが、今は印刷会社の納品係をして働いている。僕が主宰する劇団リリパット・アーミーの公演のときにはいつも手伝いに来てくれる〉。
ただしこの時点で僕の中で、『URECCO』で珍品レコードについて書いている吉村智樹と中島らもの語る「吉村君」は繋がっていない。だから『URECCO』の編集者に「この人、面白いよねえ。どんな人?」と聞いた。「関西で放送作家をしている人です」という答えが返って来た。

すべてが繋がったのは、1986年にアニマ2001というところから出版された『舌先の格闘技 必殺へらず口大研究』(これが自費出版の『全ての聖夜の鎖』を除けば中島らも初の著書になる)が、1996年に大幅に改訂されて双葉文庫より復刊した時だ。上記に引用した文章の続きには、若き日の吉村青年が、失恋を苦に自殺を試みるシーンが綴られる。しかしその方法はなぜか「自分で息を止める」というものであり、しかもいくら止めても死なない。死なないどころか、そのうちに「オレってこんな長い時間息を止められてスゴイんじゃないか」と嬉しくなり、最終的には鼻からちょっとずつ息を吸っていたことが判明するというものだった。

果たしてこれがどこまで正確に彼自身の経験なのか、あるいは中島らもの脚色もしくは創作なのかは分からない。ともあれ僕にとって、吉村智樹とはこのような人であった。そしてもうひとつ、吉村さんは僕がもう10年以上にわたって親しくさせてもらっている、小説家・花房観音さんの夫でもある。ただし、吉村さんとお会いするのは今回が初めて。花房さんと暮らす京都から上京する予定があるとお聞きし、その存在を知ってから25年の年月を経ての初対面となった。

吉村智樹、1965年生まれ。大阪芸術大学映像学科卒業後、印刷会社や編集プロダクション勤務を経て、大阪でフリーライター、関西ローカルの放送作家に。1996年、31歳の時に上京。東京で約10年ライターとして活躍。その後大阪に戻り、現在は京都在住。

「とにかく雑誌の好きな子どもだったんです。親父が長崎から大阪に出て、ベアリングのボール(精密機械を回転させるための小さなボール)を作る会社に勤めまして。最初は社宅に住んでたんですが、僕が1965年生まれですから、その頃の大阪は万博(日本万国博覧会・EXPO'70 1970年)を前に宅地造成がどんどん進んで、あちこちで山を切り崩して団地がたくさん建てられてたんです。その中の、寝屋川団地(大阪府寝屋川市明徳)というところに引っ越して育ちました。両親はいまだそこに住んでます。だから僕は典型的な昭和の、高度経済成長期の団地っ子です」
「ある日、そんな団地の近所にやはり山を切り崩して、ちょっとしたショッピングモールが出来たんです。その中に書店があって、学校の帰りに立ち読みをするのが子ども心に無上の楽しみになりまして、ええ、小学校の3年か4年だったと思います。その中に『テレビランド』(徳間書店)という雑誌があったんです。これが仮面ライダーやらゴレンジャーやら、変身ヒーローが表紙を飾る実に楽しげな雑誌で。ただし、付録が付いていたので──付録といっても小さなクイズブックとか大したものじゃないんですが──それが落ちないにようにこう、紐で縛るような形で立ち読みが出来なかったんですね。なので初めて、自分の小遣いで買った。するとこれがびっくりするほど面白かったんですね。ああ、雑誌って何て面白いんだろうと、もう夢中になるわけです」

『テレビランド』の「ちびっこ記者」から雑誌好き少年へ、そして投稿人生が始まる

『テレビランド』は1972年の創刊。東映株式会社が企画し、60年代後半にベストセラー『怪獣図鑑』(現皇太子徳仁親王、幼少期の愛読書だった)で知られる黒崎出版から発行されるも、同社が雑誌のノウハウを持っていなかったため、73年より編集部を徳間書店へ移籍して発行されるようになった。創刊に東映が関わっていたため、仮面ライダーやキカイダーなど、東映特撮ヒーローが誌面を彩ることになる。70年代後半になると『宇宙戦艦ヤマト』特集をきっかけに、テレビランド増刊『ロマンアルバム・宇宙戦艦ヤマト』を発行。これが40万部の大ヒットとなり、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」や富野由悠季の「機動戦士ガンダム」が連載される、アニメ専門誌『アニメージュ』の創刊へと繋がっていく。
「徳間書店の『テレビランド』と講談社の『テレビマガジン』。これが当時の言わば二大少年テレビ雑誌です。ただ、『テレビランド』にはやたら編集者が実名で登場したんです。例えば女性の編集者が出刃包丁をヌンチャクのように操ってマンガ家に原稿を催促するというようなマンガ(大塚とよみ作「とよみタンとエーコタン」)とか。すごい内輪ノリがあった。今思えば講談社は出版最大手、それに比べて『アニメージュ』以前の徳間書店は、きっとまだまだマイナーな版元やったんやないでしょうか。だからそういう仲間内のギャグみたいなもので乗り切っていた。でも、それが僕には面白かったんです。マンガ家の他に編集者という職業があって、他にもライターとか、記者とかイラストレーターとか色んな人がいて、その人たちが実に楽しそうに雑誌を作ってる。そういう世界に憧れたんですね」

「もう好きになり過ぎて、『テレビランド』の「ちびっこ記者」になりました。作文を書いて応募するんです。全国で50人だけなれる、その中のひとりに選ばれたんです。だからもう、僕にとってはそれがすごい栄誉で、やたらデカイ特製のボールペンと記者バッヂ、記者手帳を頂きまして。それを三種の神器みたいに毎日眺めて、携帯して過ごしましたね。普通の子みたいに野球とか、ですか? いえいえ、野球なんていまだルールもちゃんと知りませんから(笑)。もう、小学生ながら新聞記者になったというような気持ちで。「ちびっこ記者」にはレポートを書いて提出するという仕事があるんです。だから取材してましたね。近所で自動車事故が起きたとか聞くと飛んでいって、その現場を絵に描いたりしてましたね」
「だから今現在僕がウェブで書いている記事というのは、「あの異様な外観の店の中はどうなっているのか」とか、「街で見かけるあの不思議な人は何者なんだろう」というようなことなんですが、それは当時からまったく変わってない。『テレビランド』に載っていた、〈ゴレンジャー基地はこうなっている!〉という断面図とか、〈仮面ライダーの腕の中はこうなっている!〉という図解と同じ(笑)。だから『テレビランド』で学び、「ちびっこ記者」で会得した興味とノウハウを、50歳過ぎた今でも使っているという」

「もちろん大人になってから知ったんですけど、『テレビランド』には『COM』(虫プロ商事発行の先鋭的に漫画雑誌。手塚治虫の「火の鳥」が連載された)に参加していた大塚ゆたか(別名・大塚とよみ)さんや、市川英子さん(前述「とよみタンとエーコタン」のモデル)という伝説的な編集者がいたり。初期の編集長、尾形英夫さんは後に『アニメージュ』を創刊する〈スーパー戦隊シリーズ〉の名付け親。さらに後の『アニメージュ』編集長で現スタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫さんもいた。そんな才能豊かな人たちが作っていた。しかも子ども向けのテレビ雑誌ですから、写真入るわ、図解入るわ、イラストレーションと文章と編集のノウハウがすべて集大成したようなすごいものだった」
「それを、小学生にとってはひと月のお小遣いすべてをはたいて買うわけですから、1カ月を『テレビランド』に捧げるわけです(笑)。だからもう、毎号目を皿のようにして一文字逃さず繰り返し繰り返し読んで、読み終わったところで次の号が出るという。そうやって非常によく出来た雑誌に親しみ、知らず知らずのうちに勉強になったというか、雑誌の読み方を知ったんでしょうね。1974年に『ビックリハウス』(パルコ出版)が出て、僕がその存在に気づいたのは小学校5、6年だったと思いますけど、割とすんなり読むことが出来た。また『ビックリハウス』にも、『テレビランド』に似た内輪ノリがあったんです。名物編集長の高橋章子さんが前面に立って、名アートディレクターの榎本了壱さんもすごいズッコケキャラで誌面に登場してた。だから、東京のパルコが出しているお洒落な雑誌なんだけど、寝屋川の子どもだった僕もスッと入れた。そこから投稿人生が始まるんです」

『ビックリハウス』は創刊時の編集長・萩原朔美による「ビックリハウスは読者の上に読者を作らず、読者の下に編集者を作る」というモットーの元、読者の投稿を中心にした誌面作りが行われた。投稿者は「ハウサー」という名誉ある称号で呼ばれ、その中には無名時代の清水ミチコ、ナンシー関、大槻ケンヂ、そして後に吉村智樹とも親交を深める鮫肌文殊(放送作家)らがいたという。
「僕は『ビックリハウス』では頭角を現せなかったですね。まだ子どもでしたし、あの雑誌はレベルが高かったということもあるんですが、『ビックリハウス』というのは基本的に読者が自分でネタを考える雑誌だった。僕には、そういう面白いことを考えるという発想がなかったんです。だから後に『宝島』の〈VOW〉で、面白いものを街で撮ってきて写真を送るというシステムは、自分にすごく合ってたんですね。言わば取材ですよね。これも、今やってることと実はまったく同じなんです」
「でも、『ビックリハウス』に限らず、投稿を募る雑誌には一通り送ってました。というのもあの頃、同じような判型の雑誌(A5版・いわゆる文芸誌サイズ)が多かったんです。サイズが似てる雑誌って本屋さんで同じ場所に置かれますよね。でもってあの手の小さな判型の雑誌が、あの頃どれも面白かった。学研の『BOMB!(ボム)』とか、『THE SUGAR(ザ・シュガー)』『投稿写真』(共に考友社出版)とか」

おそらくどの雑誌も『ビックリハウス』の影響があったのだろう。『BOMB!(ボム)』は投稿にアイドル雑誌の要素を加えた誌面作り、『THE SUGAR(ザ・シュガー)』はそれにセミヌードなどを加え、『投稿写真』は「カメラ小僧」と呼ばれたチアガールやアイドルのパンチラを狙う少年たちの写真をテーマに作られていた。『rockin'on』(ロッキング・オン)の編集者だった橘川幸夫が創刊した『ポンプ(おしゃべりマガジン ポンプ!)』(現代新社、のちJICC出版局)という、文章からイラストから写真に至るまで、全編すべて読者からの投稿で成り立っているという雑誌まであった。
「『ポンプ』もメチャクチャ買ってましたけど投稿はしなかった。というのはあの雑誌の投稿って基本、身辺雑記なんですね。キャンパスライフの中から出て来る面白い話みたいな。読んでる分には楽しかったんですけど、自分の学生生活は面白くもなんともないので、送るネタもなかったというか(笑)。ただ、『ポンプ』は今思うとツイッターにとても似てる。だからすごい先駆けでしたよね。『ビックリハウス』の「ビックラゲーション(読者が日常で体験した「ビックリ」「驚いた」エピソードを投稿する)」というコーナーも、やはりツイッターにすごく似てる。そう考えると写真を送る『宝島』の〈VOW〉には、インスタグラム的な側面がある。この意味では、僕は当時から現在のSNS的なものを面白がっていたような気がするんです」
「同世代や僕より少し年上だと、紙媒体でずっとライターをやってた人って、インターネットに原稿を書くのに抵抗のある人もいると聞きますけど、僕は割とすんなり、ウェブライターに行けた感じがあります。よく〈紙の質感〉みたいなことが言われますけど、僕はそこは意外とどうでもよかった。だから今現在、紙媒体の雑誌が好きかというと、実はそうでもなかったりする。むしろ僕が当時愛していた雑誌の雰囲気は、ネットの方にあるんじゃないかと感じますね」

井筒和幸監督『ガキ帝国』で映画に目覚め、カメラ片手のロケハンで大阪の街の面白さを発見!

そして高校生になった吉村少年は、いよいよ『宝島』の「VOW」で頭角を現すようになる。本人も「そうですね。いまだに会う人から『VOWでお名前を知りました』と言われますから」と語る。Wikipediaの「VOW」のページでも、〈著名な投稿人〉の項の一番上に吉村智樹の名がある。
「VOW」は『宝島』の前身、植草甚一・責任編集と謳われた『WonderLand(ワンダーランド)』(晶文社)1973年創刊時より、情報を集めたコラムページ、「Voice Of Wonderland(略称・VOW)」として始まった。その後何度か消滅と復活を繰り返しながら、次第に投稿欄の傾向が強くなっていく。1980年代初めの頃だ。それが好評につき、1985には完全に読者投稿コーナーとなり、現在も宝島社のサイト上にて「街のヘンなモノ!VOW」として継続中である。

ただし吉村少年が自身の得意とするまさに「街のヘンなモノ!」投稿に行き着くには、もうひとつの出会いがあった。
「その頃、僕は映画が好きになりまして。結局、雑誌もそうなんですが、ひとりで没頭出来るものが好きなんですね。当時はどの街にも名画館というのがありました。薄暗くて汚くて、お客さんもほとんど入ってない。2本立て、3本立てで映画が上映される。料金も400円とか500円とかだから、高校生の小遣いでもいける。ATGの一千万円映画シリーズというのがあって、井筒和幸監督の『ガキ帝国』(1981年)にむちゃくちゃハマッたんですね」
ATGとは映画会社「日本アート・シアター・ギルド」の略称。東映や松竹などとは違って、非商業主義的な芸術作品を数多く製作・配給した。1960年代より、大島渚の『絞死刑』(1968年)、松本俊夫『薔薇の葬列』(1969年)、吉田喜重『エロス+虐殺』(1970年)と低予算で歴史に残る名作が作られてきたが、1970年代後半になって、新たに一千万円という格安の制作費で、若い監督にチャンスを与えようというラインナップが組まれた。そして大森一樹の『ヒポクラテスたち』(1980年)や根岸吉太郎の『遠雷』と並んで作られたのが『ガキ帝国』だった。これはそれまで自主映画やピンク映画を撮っていた井筒和幸初の一般作というだけでなく、舞台は3年後に万博を控えた1967年の大阪。関西の情報誌『プレイガイドジャーナル』(プレイガイドジャーナル社)とATGの共同プロデュース。役者も当時人気漫才コンビだった島田紳助・松本竜介に、大阪の人気小劇団「趙方豪」以下、升毅、北野誠、米村嘉洋(國村隼)、木下ほうかといった関西在住の若者たちが集められ、そんな彼らが不良グループ同士の抗争を演じる傑作青春映画だった。大阪の少年であった吉村智樹が、どれほどの影響を受けたかは推して知るべしである。

当時この映画に影響を受けたという若者は本当に多かった。というのは作品の素晴らしさはもちろんのこと、ほとんどの役者が素人に近い無名の若者であったこと、そして監督の井筒和幸が、同時代の大森一樹や長崎俊一、石井聰亙(現・石井岳龍)らと同様に、撮影所で助監督修業をした経験のない、自主映画作家だったということだ。彼らのほとんどが、高校生や大学生の頃から8ミリや16ミリフィルムカメラで映画を撮っていた。その延長線上に35ミリの商業映画があったことが大きかった。もう誰も、映画を撮りたかったら大学を卒業して映画会社に就職しなければならないとは考えなかった。今すぐ小遣いを貯めるなりアルバイトをするなりして8ミリカメラを買えば、それでもう自分の映画が作れてしまうのだ。
吉村少年も同じだった。しかし彼はそこで映画とはまた別の面白さを発見する。

「映画を作るためにはロケーション・ハンティング(ロケハン)というものをしますよね。どこで撮影しようかとか考えたりしながら、いい撮影場所を探す。その時たまたま母親がポケットカメラを持ってたんです。写真のカメラです。細長いフィルムをポンッと入れる、簡単なヤツです。それを借りて、自転車に乗って毎日ロケハンをしてたんですね。それで街をバチバチ撮っているうちに、大阪に住んでいたということもあるんですが、今とは比べものにならないくらい、手書きの看板というのが街に溢れていてたんです。コピーライターなんて人は当然使ってない、だから店主が勝手に考えた、好き放題書いた文句がヤマほどあった。そこで初めて、街ってメチャメチャ面白いなって気づいたんです。カメラを持つことによって気がついたんですよね。持ってなかったら気がつかなかったと思う、それほど大阪の街では面白看板が日常に埋没してたんです」

店主が勝手に考えた好き放題書いた文句──、<路上観察歴30年の著者が送る、オール関西の街ネタ466点!>という惹句の付いた吉村智樹・著『ジワジワ来る関西(WEST)』(扶桑社)には、「命懸けで営業中」と書かれた飲み屋ののれんや「当店には色気のない女と無愛想な男揃ってます」というスナックの貼り紙、「やめろ、ひったくり。彼女が出来ないぞ!!」という「西日本内部告発社被害者の会」なる謎の団体の注意看板などが紹介されている。

「そういうものを撮って『宝島』を始めとした東京の雑誌に送っていると、大阪では日常的な風景が、関東の人は面白がるんだなということにまた気づくんです。そうですね、中島らもさんも当時の主たる肩書きはコピーライターでしたから、同じ時期に同様の関西の妙な手書き看板キャッチコピーのことをエッセイに書かれてました。ただ、イカンなあと思ったのは、僕やらもさんがそういう大阪の面白い看板のことなんかを紹介して、東京の人が『これ変だよね』って笑う。すると大阪の人は「これ、変なんだ」と思って外すんですよ。おそらく東京の人に笑われてると思うでしょうね。別に誰も悪気があって笑ってるわけじゃない、愛情持って笑ってるのに(笑)」

関西の寵児、大スター・中島らもの登場で、人生の方向が変わる

そうやって「街のヘンなモノ!」を撮ってせっせと投稿にいそしんでいた吉村少年だったが、初心の映画作りを忘れたわけではなかった。高校時代から『ガキ帝国』に刺激された、やんちゃな少年たちが活躍する学園物8ミリ映画を制作。映画監督を志し、大学は大阪芸術大学映像学科に入学。最終的には卒業制作の作品で名監督・中島貞夫の名を冠した「中島貞夫賞」を受賞した。しかし大学生活を送るうちに、彼の中では別の志向が芽ばえる。
「それは中島らもさんなんです。僕は〈VOW〉に投稿してたくらいですから、当然『宝島』の〈啓蒙かまぼこ新聞〉は知ってました。ただあれはらもさんが広告代理店(日広エージェンシー)の社員時代のお仕事だった。それが僕が大学に入った頃にフリーになられて、ムチャクチャ活躍され始めたんです。とにかく書いてらっしゃるものが面白くて、関西の寵児だったんですね。大スターだった。それで文章を書くということも面白いんじゃないかと考え始めたんです」

また同時に学生時代、吉村さんは先に引用したように『月刊 耳かき』というミニコミを発行する。最初はコピー誌から始め、やがて約60ページほどのオフセット印刷。本人曰く「全編ギャグギャグギャグの、街で見つけた変なのもばっかりが載ってる」雑誌だったという。全6号発行した。すると関西ローカルの情報誌『プレイガイドジャーナル』や『Lmagazine(エルマガジン)』(京阪神エルマガジン社)から原稿依頼が来て、学生ライターとしての活躍も始める。「原稿料は、当時の方が高かったくらい(涙)」とは本人の弁。

一方、吉村青年が羨望する中島らもも、さらなる快進撃を続けていた。『宝島』に連載されていた「啓蒙かまぼこ新聞」は、中島らもが広告代理店「日広エージェンシー」の社員プランナー/コピーライターとして、灘高校時代の同級生が常務を務めていた「かねてつ食品(現:カネテツデリカフーズ)」をスポンサーに1982年より始めた「脱・広告」記事だった。翌84年には同社の広告シリーズ「微笑家族」が『プレイガイドジャーナル』に掲載されるようになり、同年、朝日新聞大阪本社版日曜版「若い広場」にて、自身のイラストを交えた人生相談コーナー『明るい悩み相談室』の連載が始まる。

同時に各雑誌媒体に膨大な量のコラム、エッセイを執筆。また同じ時期(1984年)に「かねてつ食品」の一社提供で、深夜番組『どんぶり5656』(よみうりテレ)がスタート。中島は構成作家としてコントを執筆するだけでなく、竹中直人、シティボーイズ(大竹まこと、きたろう、斉木しげる)、中村ゆうじ等と共に出演。自らもコントを演じた。翌1985年には同じよみうりテレビにて土曜日夕方、中島らも司会の『なげやり倶楽部』が始まる。これには上記メンバー以外にもいとうせいこう、キッチュ(松尾貴史)、若手時代のダウンタウンも出演している。まさに一世を風靡した関西の寵児、大スターだったわけだ。

さらに『なげやり倶楽部』で味わった放送コード、表現の不自由さに愛想がつきた中島らもは、1986年6月「舞台やったら何のタブーもないやろ(鮫肌文殊『らぶれたあ オレと中島らもの6945日』講談社より)」と、わかぎゑふと共に劇団「笑殺軍団リリパットアーミー」を結成する。これにはキッチュ(松尾貴史)、鮫肌文殊、ガンジー石原等に加え、マンガ家のひさうちみちお、劇団「売名行為」の牧野エミ、立原啓介、升毅。落語家の桂吉朝、ミュージシャンのチチ松村と、関西のサブカルチャーを支える才能が数多く参加することになる。
「『どんぶり5656』、『なげやり倶楽部』、ムチャクチャ面白かったです。同時に、それまでらもさんが各雑誌で書きまくっていた文章が、次々と単行本にまとまって出始めた。しかも出る本出る本すべてが面白くて。内容を覚えるほど何度も読み返しました。それで大学4年くらいですかね、リリパットアーミーのお手伝いを始めました。モギリと大道具をやってました。それは鮫肌文殊の紹介でした。彼が役者として関わるようになって、スタッフが足りないから来ないかと呼んでもらったんです」

現在売れっ子の放送作家(『進め!電波少年』『タモリのスーパーボキャブラ天国』『稲妻!ロンドンハーツ』他)として活躍する鮫肌文殊は吉村智樹と同じ1965年生まれ。彼らは非常に似通った青春時代を送っている。吉村は冒頭に引用したように「海坊主」、鮫肌は「捕虜収容所」というパンクバンドを高校時代に結成。『ビックリハウス』の投稿コーナーで常連となり、投稿小説で同誌のエンピツ賞を第17回と第18回に連続受賞する。19歳の時、初の小説『父しぼり』(長征社)を上梓。彼も吉村同様、『どんぶり5656』に夢中になり、その初単行本を中島に送ったことから、『なげやり倶楽部』のブレーンとなる。
「鮫肌もミニコミを作ってたんです。それで僕が彼に、当時のことですから、封筒に切手を入れて送って、ミニコミを送り返してもらうというようなことをやってるうちに仲良くなったんですね」

そして『西方冗土 カンサイ帝国の栄光と衰退』に登場する、怪しい喫茶店「亜細亜コーヒー」と謎の飲み物「ネーポン」のエピソードになる。
「忘れもしません。当時大阪の北区に『扇町ミュージアムスクエア』という大阪ガスが運営していた小劇場があって、そこでリリパットアーミーの公演があったんです。終演後に車座になって劇団員、スタッフがお弁当を食べていた。その時、僕が鮫肌にその悲惨な体験を話していた。するとムチャクチャ鋭い視線を感じた。見るとらもさんがじっと聞き耳を立てていた。きっとらもさんの中で『これはエッセイのネタになる!』というようなも強い嗅覚が働いたんじゃないでしょうか」
そして中島らもは後日、件の「亜細亜コーヒー」へ出かけていき、名作エッセイ「ナゾのババアの喫茶」が生まれる。興味のある方は、実際に『西方冗土 カンサイ帝国の栄光と衰退』にあたって頂きたい。ただし吉村さん曰く、実際は店内にいた明らかに覚醒剤を使用している中年男の話など、ヤバ過ぎて書けないことが多く、オブラートに包んだ脚色が各所になされているという。

「そんなふうに中島らもさんに憧れまくってましたから、大学卒業間近になって将来を考えた時、らもさんのようになるためにはどうしたらいいんだろう? と考えたんです。で、らもさんは『日広エージェンシー』コピーライターになる前、印刷会社の営業マンだった。それをよくエッセイに書いておられたので、僕も印刷会社に就職しようと決めたんです」

中島らもは吉村智樹と同様、大阪芸術大学の芸術学部放送学科出身。4回生の時に結婚する。夫人の美代子さんは当時学校図書館の司書として働いていたので、中島は「主夫」と称し「ヒモ」のような生活をして遊び暮らしていた。ところが卒業間近になって妻の妊娠が発覚。慌てて就職先を探し、最終的には叔父の紹介で「大津屋」という印刷会社に就職する。
いくら憧れていたとはいえ、同じ進路を行くというのは極端な話だが、実は同い年の鮫肌文殊は著書『らぶれたあ オレと中島らもの6945日』(講談社)の中で、中島らも本人から「絶対に就職した方がいい。フリーの物書きになるとしても、一度会社に入って理不尽な目に遭って人生経験を積むべきだ」とアドバイスされたと書いている。しかし鮫肌はその忠告を無視してフリーライターとなり、しかし仕事はなくやがて酒浸りの生活となる。そんな時、東京へ行き松尾貴史と改名し活躍していたキッチュから電話をもらい、「ウチの事務所(古舘プロジェクト)で放送作家をやらないか」と誘われ現在にいたる。『らぶれたあ オレと中島らもの6945日』には、<後で知ったのだが、大阪のライター仲間のヨシムラがキッチュさんに「今、鮫肌がヤバいことになってる」と知らせてくれたようであった。>という記述がある。

こうして憧れの中島らも後を追うように印刷会社に就職した吉村青年だったが、そこにはまた違った運命の方向が待っていた。


(中編へ続く)
ライターズ(Writers)〜「書く」ことを職業にした人々~ 第3回 吉村智樹(ライター / 放送作家)中編


写真=川上 尚見
取材・文=東良 美季

#CULTURE

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