「人儲け」で“世界のソース王”に。片目のドリーマー、ヨシダソース会長列伝!

オノレの価値観を貫き、ひたすら自由に生きながら成功を掴み取ってきた人の生き方には人生のヒントが散りばめられている。目前に迫る人生100年時代を生き抜くための術を見つけ出そうと向かった先は、このテンガロンハットのおじさん。吉田潤喜である。

彼が会長を務めるヨシダグループは、アメリカ・オレゴン州ポートランドを拠点にヨシダソースをはじめ、飲料水、レストラン経営、マンション・リゾート開発事業を運営。アメリカ中小企業局(Small Business Administration)が2003年の50周年記念時に発表した殿堂入り企業24社にFedExやインテル、AOL、ヒューレットパッカードなどと並んで選出された。

この男がアメリカで成功したきっかけとなった、ヨシダソースがこちら。

甘辛くてほんのりニンニクの効いたこのソースは1日平均7万本生産され、世界14か国に流通している。もともとは吉田さんのお母さんが京都で経営していた焼肉屋さんのタレ。成人前にアメリカに渡り、空手道場を営んでいた吉田さんが門弟たちからのクリスマスプレゼントのお返しに配ったら、すごい人気で商品化され世界に広がった……というストーリーは知る人も多い。ネットや書籍やテレビで何度も語られ、なんとミュージカル化までされている。

そのジェットコースターのような人生において、彼は何にこだわってきたのか。相当変わっていて、まんまなぞることは一般人にはきっと難しいだろう。でも、その時何を考え、どう決断したかは、時代や人によらず役立てることができるに違いない。
まず、ジェットコースター部分をサラリと語っていこう。

超ヤンチャ! 京都の“水草のガキ”

吉田潤喜は1949年、京都の在日韓国人一世の家に生まれた。12歳年上のお兄さんと、5人のお姉さんを持つ7人きょうだいの末っ子。お父さんは写真館を営む売れないカメラマンで、一家はもっぱらお母さんが支えてきたという。京都駅の近くで『水草』という店を営み、業態はキャンデー屋、靴屋、洋服屋、雀荘、喫茶店、焼肉屋、お好み焼き屋と変わった。
吉田さん、3歳の時に縫い針が右目に刺さって失明、“片目のチョーセン人”と揶揄される憂き目に。でも、生来の負けず嫌いとお母さんの教育によって「コンチクショウ! 今に見とれよ!」というメンタリティを人生のテーマとして獲得。“水草のガキ“として近所から恐れられ、呆れられ、小学生の時には空手で頭角を現し悪名に磨きをかける。番長的存在として小中学校を過ごし、だが「このままではアカン」と猛勉強して公立高校に入学。折しも東京オリンピックが開催され、なぜかアメリカ選手団の活躍に胸躍らせる。高校ではひょんなことからガチの武闘派暴力団会長の子息から信頼を得ることに。期せずして卒業後のレールが敷かれつつある状況を打破すべく、立命館大学を受験、失敗。

ここで進路は2つに絞られた。
①当該団体への加入
②(超仲が悪かった)お兄さんが営む工場への就職

だが彼は強引に新たな選択肢を導き出した。

③(とくに目標はないけれど)アメリカへ行く

お母さんは、コツコツ貯めたお金に借金と頼母子講で得たお金を合わせて、航空券を用立ててくれた。かくして1969年、吉田潤喜は19歳の冬にシアトルへと旅立ったのである。
「もう二度と帰ってくるつもりはなかったよ。だから出発前夜に八坂神社さんの石段から通りを見ながら、一人で泣いてたんだ」

空手からソースへと繋がる人儲けの道

渡米後即、帰りの航空券を現金化。中古車を買ってそこをねぐらに庭師のバイトに従事。海兵隊に2度志願するも「片目だし」と2度とも失格。
「ベトナム戦争直前だったんで、今にして思えば、弾かれてよかったね。受かってたら確実に戦地で死んでたね(笑)」
なんとかシアトルのハイライン・コミュニティー・カレッジに潜り込む。そこでは体育の授業に空手が採用されていて、ブルース・リーの影響で空手ブームもあったため、授業のアシスタントを務めたり、学内で空手を教えて学費と生活費を稼いだ。
「偶然なんだけどね(笑)」

生業も決まらず、ひとまず空手の先生をしていた時に運命の女性に出会う。1973年、お相手は美しいブロンドのリンダ・マクファレン。2週間でプロポーズ、拒絶されたが「頼む、これでどや!」と左手の甲にタバコを押し当てて迫る。いわゆる“根性焼き”で半ば彼女を脅すようにして、強引にYESを引き出した。

「ほれ! これやがなー!」と、火傷の跡を見せてくれる。「これは僕の勲章やで!」とニコニコ。
まあその笑顔の……大変失礼ながら、かわいいこと!

プロポーズの2年後、長女・クリスティーナ誕生。だが生後すぐ黄疸と診断。保険には未加入だったが、ともかく病院に。九死に一生を得て、医療費の請求に戦々恐々としていたら、なんと250ドル(当時のレートで約7万5000円)! それはお金のない人たち向けに病院が適用していたシステムだったのだけれど、吉田さん、この時強く心に誓ったという。
「絶対に成功して、絶対にお返しするんだ、って」

ヨシダソースが生まれたのは1981年。
3人の女の子をもうけ、吉田さんは空手を生業にしていた。シアトル以外にオレゴンの空手道場の師範を務め、空手を活用した逮捕術訓練プログラムを考えて、アメリカ北西部全域の警察官の指導にも携わった。が、1980年の不況で生徒激減。生活苦に陥った。空手の生徒たちから贈られるクリスマスプレゼントにお返しする金銭的な余裕がなく、一計を案じて京都のお母さんが焼肉屋・水草で使っていたソースのレシピを聞き取って自作。ビンに詰めて配った。これが大好評! 「お金を払ってでも欲しい!」という生徒が続出、「ならば!」と完全家内制手工業で、道場の地下でソース作りをスタート。それがヨシダソース。その後紆余曲折があったが、ここから、今や18社に及ぶヨシダ・グループの歴史は始まったのである。

すべてはお母さんから学んだ

人生を語ると、とにかくお母さんがよく出てくる。そもそものソースの生みの親というだけでなく、吉田さんの人生観を決定付けた人でもある。商売を8つも変えながら家族を支え、ヤンチャな末っ子をめちゃくちゃ叱ったけれど否定はしなかった。
「5歳の時『オレ、将来お袋に島買うたる!』って言うてたんです。近所の子どもらから無理やりビー玉巻き上げて、それを貯めて買うつもりで(笑)。3番目のお姉ちゃんからは『また悪さばっかりして!』って怒られた、でもお袋はニヤニヤしながら『ジュン公、ほんまに島買うてくれるんやったら、大きな島買うてや〜』って言うんです。子どものケンカに親が出て行ってどうするって考えてる人でした」

小学校6年生の時、近所の野原をめぐる抗争で中学生にバットで殴打され泣きながら帰ってきた息子に母は言った。「どこのガキにやられた! 中学生? そこのバット持ってもう1回行ってこい!」。
「行くには行ったけど怖いから、ちょっと離れたところからそいつの家のガラス全部割ったってん。そしたら交番の巡査連れてそこのお母さんがうちに怒鳴り込んで来た。うちのお袋えらいよ〜(笑)。『お前のガキ、中学生やろ! なんで小学生をバットでやるんや! 反省すんのはあんたやで!』って。警官もそのおばさんも謝って帰ったわ(笑)」

中学の時には、借金取りを追い返したという。先月分の入金ができず、怒鳴り込んできた男にお母さんは落ち着き払って言った。
「『ないから払わへんねやろ? 怒鳴り込んで来られて払ったら、ないっていうのが嘘になるやん。わたしクリスチャンやで? 払わへんのはないからや! ええ加減にしときや〜〜~っ! 金がある時にちゃんと払ったるさかい!』。借金取りのおっさん、逆に謝って帰って行った。あの時のお袋には後光が差してたなー。ほんま、生き方を学びましたわ」

「しょうもない見栄を張ったらあかん」
「やられたらきっちりやり返す」

それらをずっと肝に銘じて生きてきた。50年以上前のお母さんのエピソードを、まるで昨日のことかのように語る。今も脳裏にその声は聞こえているという。

人間、かわいがられてナンボ

アメリカに渡ったときの吉田さんは徒手空拳。ビジョンも何もなく、完全にノーガード。
「うん、その日にソース何本売るかしかなかったからね」と笑うが、そのソースさえ後付けだった。「ああそうだね、うん、全部偶然だよ(笑)」

でもなぜかずーっと周りから目をかけられて生きてきた。不法就労を2度摘発された時も庭師の親方と移民局のおばちゃんに助けられた。最愛の奥さん・リンダさんとの結婚では根性焼きひとつでプロポーズを承諾させた。結婚に反対していた義父は、会社が傾いた時16万ドルも出資してくれた。

「周りの人はみんな僕をかわいがってくれたね。僕も可愛がられたいって思ってきた。そういう願望がないと人の輪ってできないよ。エラくなると調子に乗るやん? 高級車乗って高級店でゴハン食べて何千万する時計つけて……周りが“あの人はエライ人やな”って思うだけ。かわいがられる人間になるには、見栄を張ったらアカンっちゅうことです」

「エラそぶってる人間(笑)」に対しては、あいつのところに行こう、助けてやろう、ソースを買ってやろうなんて誰も思ってくれない。愛されてこそ、なのである。
「見栄って、絶対誰にでもあるねん。だからなくすことは無理。これは向上心とも繋がってる。今のままでいい、のんびり過ごしたいって思うだけやったらモンキーとか金魚と同じ。口開けて餌をもらうだけの人生やろ? 欲望があって見栄があるのはしょうがないねん。でもそれをどうコントロールするか。鏡の前に立って自分の顔見てごらん。見栄は顔に出るから。イヤな顔とかつまらなさそうな顔するっていうのは、どこかで自分がエライ、認められたいって思ってる証拠やから」

吉田さんはものすごくかわいがられ続けてきた。そして、かわいがられた相手には、一生をかけて報い続けている。

最後までチャーミングすぎる男

「物を買ってほしいと思ったら、物を売り込んだらアカンねん。自分を売り込まな! というても、“自分はこんなにできる人間で有能で付き合ったら得やで”みたいなことを訴えるんとは違う。話をする中で相手にかわいがられて信頼を得て、この人やったら付き合っていきたいなって思ってもらう」

取材のはじめ、撮影用に買ってきたヨシダソースをドン・キホーテの黄色い袋から出すと、吉田さん、一瞬で相好を崩した。
「嬉しいわあ! 買ってきてくれたん? 言うてくれたらなんぼでも持ってくるのに」
それだけで取材陣は、ちょっとハッピーな気分になった。
「そうやんな? この人としゃべりたい、話聞きたいってならへんかったら、いい話も出てこないでしょ? 全部それと同じ……おたくら今日、僕としゃべって安心したやろ?」

図星だ。でも最後にこんなひとことを付け加えた。

「でもな、気ィつけや! 騙されるで(笑)」

吉田 潤喜(よしだ じゅんき)
1949年、京都市生まれ。ヨシダグループ会長兼CEO、オレゴン州知事国際経済顧問、オレゴン経済開発委員会理事、プロビデンス病院財団理事、子どもガン協会理事。1969年に単身渡米、自家製のタレをベースにしたヨシダソースで成功を収める。長女・クリスティーナさんを助けてくれた病院には今も寄付を続け、通った大学には彼の名でシングルマザーのための奨学金も設立。“やられたらやり返す”を完全に体現する男である。


写真=稲田 平
取材・文=武田 篤典

#CULTURE

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