「どこにも住んでない」——異色のファッションディレクターが語る、LCC時代の“生存戦略”(前編)

「どこに住んでいますか?」と問われた時、私たちの多くは「東京に住んでいます」「日本に住んでいます」などと答える。

「住んでいる」という意識は、精神的には住居のみならず、職業や人間関係など、あらゆる周辺状況との関係の中に存在しているという意味を包摂する。それは私たちを社会的存在として自ら認知するよすがであると同時に、時に私たちを社会に縛り付ける制約にもなりうる。「東京にいないと仕事がない」「うちの会社ではこうでなければ生きていけない」……社会が流動化し、既存の価値観が揺らぐ一方で、未だそんな不自由を感じながら、「日本社会」という名の「自ら定めた限界」の中に住んでいる人も多い。

ファッションの卸やバイイングを生業とする横掘良男は、自分自身を「どこにも住んでない」人間だと自称する。実際、2017年11月〜12月(取材当時)のスケジュールを見ると、LCCを駆使してジャカルタに5〜7日の滞在を月に2回、シンガポールに1泊2日〜2泊3日を月に3〜4回、そして日本には月に1度、3日ほど帰ってくるという日々を過ごしている。どこの国にも定宿こそあれ、いわゆる「住居」はない。したがって長期の海外在留者と同じく日本の住民票もすでになく、まさに「どこにも住んでない」のだ。

横堀良男

それでいて、彼の事業は今のところ順調そのもの。日々LCC(格安航空会社)を駆使してアジアを飛び回って日本のファッション業界と各国のバイヤーの橋渡しをしたり、時には店舗の運営企画やコンサルティングなども行う。「日本に住んでいない」ことのデメリットは、彼の活動においては感じられない。

とはいえ、彼も初めからこんなスタイルで生きてきたわけではない。東京都・江東区の一般家庭に生まれ、高校在学中の販売アルバイトをきっかけにアパレルの道に進み、独立後も国内外のブランドを扱う、ごく普通のファッション業界人だった。当時の会社の社員旅行でハワイとバリ島に行って以来、32歳になるまで海外に出たことすらなかった。

震災が全てのきっかけだった

横堀 意識が変わるきっかけになったのは、2011年の東日本大震災なんです。あの時はファッション業界も大混乱に陥って、東北地方の工場で作っている商品が全て生産できなくなったり、卸の場合は東北の会社に商品を納めていても「さすがに今は請求できないよな」と考えているうちに、そのあおりを受けて東京の会社もだいぶ倒産して。僕の会社も結構な額をかぶったんですが、そうこうしているうちに消費不安が全国を包んでしまって、震災の被害を直接受けていない西日本の会社も発注キャンセルをしてくるという事態になった。みんな生き残るために必死なのは理解できますが、とにかく「このムードに飲み込まれてしまうと、負のスパイラルに陥るな」という感じがすごかったんです。

それがなくとも、国内のファッション売り上げがどんどん下がっていくのはわかっていた。そうと知りながらも、誰もが現実を見ることなく「まだいけるだろう」と思い込もうとしていた矢先の震災で。「これまでの仕組みのまま再スタートしても、一時的には回復するかもしれないけど、長期的には何もいいことはない。一度この枠組みから出なければ」と痛感しました。


その直後、横堀はたまたま韓国・釜山のファッションイベントに招待された。現地に赴いた彼は、その活況に衝撃を受ける。

横堀 ビックリしましたね。首都ではない釜山ですら「これから世界を相手にやってやるんだ」という意識の高い若者が多くて人々のパワーに圧倒されたし、刺激も受けた。「これはいよいよ、海外をちゃんと見なければ」と思って、翌月にはソウルに行ったんです。そこで初めて気づいたのが、「ああ、規模は違えど、東京みたいなものがもう一つあるだけなんだ」と。僕らは国内にいると東京が世界最先端か、それに近い街であるような錯覚に陥ってしまいがちですけど、外から見てみれば世界に数ある大都市の一つでしかない。「ああ、もう出よう」と、その時決心したんです。

で、そこから1年は国内の仕事もやりつつ韓国を相手にファッションの卸をしてたんですけど、「結構難しいな」と思って。関税もかかってしまって価格も高くなるし、商習慣もかなり違うので「売ってくれよ」とは言われても、いざ持って行ったら「買うよ」とは言ってくれない(笑)。ちょっとまだまだハードルが高いなと思って、そこから香港や上海にも行き始めたんです。

フィリピン・マニラでのミーティングの様子。月の2/3は、こうしてアジアのどこかで打ち合わせをしている。

そしたら、1年くらいで短期の、ほかの卸同士のブランド売買を仲介する仕事をもらって。そのギャラが結構よかったんですよ。日本で同じことをやるより、格段に。それ以上に、「あ、こういうソフト的な仕事なら自分で在庫を抱えることもないし、リスクが少ない。卸じゃなく、この形にならないかな」と思ったこともあって、いつかはそっちの方にシフトしていきたいと考えました。とはいえ韓国のブランドを香港に卸すとか、そういう従来の商売もやりながら、香港、そして日本の仕事を並行して進めるようになったのが2013年くらいまでかな。

フロンティアを求めて東南アジアへ

しかし、やがては香港での仕事にも限界を感じ始める。もともと現地で活動する日本人が多く、それ故に仕事のツテもあった反面、そのしがらみの中でやっていくと、どうしても頭打ちになってしまうという現実に気づいたのだ。

横堀 香港で勢いづいてる会社と仕事をしようと思うと「あそこの仕事は●●さんがすでにやってるよ」とかいう話がたくさんあったんですよね。これだけ競合が多いと、ある程度以上スケールするには難しいな……と思いつつ、次にどうしようと思いながら新聞を読んでたら「ASEANがこれから伸びてくるぞ」ということがしきりに書かれてたんで、2週間ほど視察に行ってみたんです。

シンガポール、ジャカルタ、クアラルンプールと順番に飛んでみて、「すごい!」と思いました。ジャカルタは街もソウルや香港に比べて大きいし、交通もはるかにカオスで(笑)。とにかく、得体の知れないパワーを感じたんです。気候がカラッと明るいのもよかった。それですぐに「ジャカルタでやりたい」と思ったんですけど、インドネシアは外資規制なんかもあるので、いきなりというわけにはいかない。そこで、まずは規制が少ないシンガポールに拠点を置くことにしたんです。

多民族、多宗教が入り乱れる東南アジアでは、当然接する相手も多様なバックグラウンドを持っている。それらへの理解なくしては、アジアでの仕事は成り立たない。

当時のシンガポールでは、感度が高めの人のみならず、日本のECサイト運営企業が大手総合商社とともに子会社を設立して原宿系の若年層に人気のブランドを集めたリアル店舗を出すようなマスレベルでの動きもあり、日本のファッションに対しての関心が高まっていた。横掘はここを足がかりにネットワークを広げ、徐々にインドネシアにも顔が利く人脈を構築していく。それと共に、仕事の内容も変化していったという。

横堀 シンガポールからジャカルタで仕事をするようになって、どんどん卸として扱う物量が減っていきました。それとともに増えてきたのが、「セレクトショップを作りたいんだけど、どんな店舗を作ればいいんだ?」とか「どんなブランドが売れると思う?」という、ソフトの部分の仕事ですね。
 
シンガポールは人口が400万人くらいで商圏としては小さいけど、アパレルの40%以上がオンラインストア。関税がなくて海外からも比較的リーズナブルに物が買えるから、お客さんはお店に行かないんです。ところが、インドネシアは関税を自由化してしまうと「国内産業の雇用が奪われる」という意見がまだまだ根強く、関税が高い。そして、まだまだ国民の平均所得は安い。そこで、自分たちでリアル店舗やブランドを作っていくのが一番早くて安上がりだ! という考えが生まれてくる。そこに、各国のファッション業界を見てきた知見を求められるんです。

タイ・カセサート大学でのワークショップの模様。学生たちの 熱量は、日本よりも総じて高いと感じる。

インドネシアのファッション業界はまだ発展途上な部分もあって、例えばセレクトショップでも「オリジナルを作った方が原価が安いんなら、バンバンオリジナルを作ろう」とか言うんだけど、「いや、そこはショップのイメージもあるから、粗利が少し下がるとしても輸入するべきものは輸入するべきです」みたいな戦略を教えたりする。そういう感じで、日々バックオフィスにべったり貼り付いてああだこうだとミーティングをしていると、経営者の一家と仲良くなって、どんどん身内みたいになっていくんですよね。家に呼んでもらってご飯を食べたり、結婚式に出たり。これまでは割と川の流れのように面白いところ、面白いところに流れてきたけど、ジャカルタに来てからはフェイズが一つ変わったような気がしています。


自分の「生き場」を探すところから、少しずつ自分の「生かし方」を考えるフェイズへ——。シンガポール、そしてインドネシアという場所に出会い、横堀のフォーカスは徐々に変わっていく。その先に彼が見据えるものに、後編では迫っていきたい。

「どこにも住んでない」——異色のファッションディレクターが語る、LCC時代の“生存戦略”(後編)

写真=本人提供
取材・文=安東嵩史

#FASHION

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