ライターズ(Writers)〜「書く」ことを職業にした人々~ 第7回 和田靜香(音楽/相撲ライター)後編

第7回のゲストは、音楽ライターの和田靜香さんです。19歳のとき『ミュージック・ライフ』(シンコー・ミュージック)でデビュー以来、『ミュージック・マガジン』(ミュージックマガジン社)他、音楽雑誌を中心に執筆。近年は相撲ライターとしても活躍。著書には『スー女のみかた 相撲ってなんて面白い!』『東京ロック・バー物語』(以上、シンコー・ミュージック)、『おでんの汁にウツを沈めて 44歳恐る恐るコンビニ店員デビュー』(幻冬舎文庫)、『ワガママな病人VSつかえない医者』(文春文庫PLUS)。20歳から6年間師事した音楽評論家・湯川れい子さんの半生を描いた『評伝★湯川れい子 音楽に恋をして♪』(朝日新聞出版)、他。インターネットサイトでは、「週刊女性・PRIME」にて「和田靜香 スー女のミカタ」を連載中。

20歳、音楽評論家・湯川れい子さんの元で働き始めて

1985年、20歳の専門学校生だった和田靜香さんは就職試験にすべて落ち、おまけに働き始めて1週間目のアルバイト先も首になってしまい途方に暮れていた。しかし、その時頭上で「くす玉が弾ける」ような奇跡が起きる。高校生の頃から聴いていた、音楽評論家・湯川れい子さんがディスクジョッキーを務めるラジオ番組「全米TOP40」に久しぶりにハガキを出した。そこに何気なく「就職試験に全部落ちてしまった」と書き添えたところ、湯川さん本人から「もし良かったら私の家でアルバイトしませんか?」という返事をもらうのである。後に聞いたところによると、それまで勤めていたアシスタントの女性が辞めるタイミングだったそうだ。

こうして和田さんは、四谷にあった湯川さんの自宅兼事務所へ通うことになった。

「まず、基本的な仕事は電話を取ってスケジューリングをして、著作権契約書とかを作るの。著作権というのは主に作詞の方ね。いつ、どこからいくら入ったかという収入のお知らせが送られて来るから、それらをまとめるという会計的なこと。元は有名な画家の和田三造という人の持ち物だったというレンガ造りの大きな一軒家で、れい子さんの仕事部屋があって、私もそこで机を並べて作業をするわけ。『全米TOP40』はまだ続いてたから(1986年9月まで)、それ用の資料も作った。本番でれい子さんが話すための、曲やアーティストの情報とかね。あと訳詞の仕事もあるので、私が単語を調べとくわけ。すぐに訳せるように一個一個辞書で単語を調べて、何となくこの流れだとこの単語はこの意味かな、みたいなことを書いておく。だから勉強にはなったよね。お手伝いさんがいるからお昼は作ってもらえる。正直、お給料は決して高くはなかったのよ。だから助かった。すっごいお料理上手な人で、美味しかったなあ」

前編でも引用した『評伝★湯川れい子 音楽に恋をして♪』(朝日新聞出版)のあとがきには、初日に行くと湯川さんは仕事で不在で、小柄な女性が応対してくれた。<お手伝いさんの伊東ちゃん。福島出身のずうずう弁のおばさんで、どれだけそれからお世話になったろう。>という記述がある。

「れい子さんって呼ぶの?」と聞くと、「ううん、こういう場では“れい子さん”とか言っちゃってるけど、呼ぶときは“れい子先生”。師匠だからね」とのこと。

「だからバイトに行ったというより、師匠の家に入ったって感じよ。これは出来ません、あれは私の仕事じゃないですなんてことは言えないわけ。日常的なお掃除とかはそのお手伝いさんがやってくれるんだけど、『物置が散らかってるから片付けて』って言われたらホコリだらけになってやる。地下にレコード室があってね、先生が何千枚も持ってて、もうカビだらけで、そういうのを整理するとか。ありとあらゆることをやるのが仕事。当時まだ小学生だった息子がいて、彼の面倒も見て一緒に遊んで、その子の飼ってるイヌの世話して。私、イヌ恐いからビクビクしながら散歩させてたわよ。そんでまたれい子先生までネコ拾って来ちゃったりするから(笑)、ネコにもゴハンあげたりしなきゃなんないしね」

「弟子入りだね」と僕は言ってみる。立川談春さんの自伝小説『赤めだか』(扶桑社)を思い出した。若き日の談春さんが師匠の立川談志に入門し、立川流も住み込みではなく通いなのだが、弟弟子の立川志らくさん等と共に、稽古を付けてもらいながら家の細々とした用事をこなしていく。

和田さん続ける。「れい子先生は超多忙だから、子どもの学校の行事は私が行くわけ。でも当時、私はまだ20歳とかでしょう? しかも息子はアメリカンスクールに入れてたから。二子玉川にある「セント・メリーズ・インターナショナル・スクール」。学園祭とかあると、外人のお父さん、お母さんの間に入って焼そばガーッと焼いたりして(笑)。しゃべりかけられて英語が分かんなくても『OK、OK』なんて言って、めっちゃ逞しくなったよね」

「和田さんから見て、湯川れい子さんってどんな人だったの?」と聞くと、少し間を置いてから、「恐えぇよー」と冗談ぽく笑った。

「散々お世話になっておいて、恐いとか厳しいなんて言ったら叱られちゃうけど、でもさ、れい子先生という人は、女性が外で働くなんてことが考えられなかった昭和30年代に、『スイングジャーナル』に投稿したことがきっかけで一躍注目を浴びるわけ。すごい美人だから一気にテレビとか出るようになったけど、当時は女が一人、フリーランスなんかで生きて行ける時代じゃないでしょう? そこを生き抜いててきた人だから、女性として強いし逞しい。テレビとかで見ると、いつもニコニコして優しそうだけどね」

『評伝★湯川れい子 音楽に恋をして♪』には、その美貌と才能から嫉妬され、あらぬ中傷を受け、さらにあからさまに性的な誘いをしてくる輩もいたが、当時はセクハラなんて言葉や概念はない。何かあると悪いのは女の方、「あなたにスキがあるからだ」とまで言われたという記述がある。そういう時代を常に第一線で走り続けた女性なのだ。

また湯川れい子さんご本人も、和田さんの著書『ワガママな病人VSつかえない医者』(文春文庫PLUS)の解説で、<彼女のことを「靜香ちゃん」とか、「しーちゃん」とか呼ぶ人たちもいるけれど、私にとってはいつも「和田ァ」であり、「ワダーッ!!」であって、決して靜香ではない。だってひとつも静かな女ではないし、>という文章を寄せている。またそこには<(和田さんは)とにかく頭は良いし、性格もおへその右半分はとても良くて、まだ小さかった息子を邪魔者扱いしながら、大切な客には口をへの字に曲げて愛想笑いひとつせず、仕事はしっかりとやってくれた。>という記述もある。

昼間はアシスタント、夜はライター業。ある日、過労とストレスで倒れて

「たぶん、私とれい子先生って正反対だと思うんだよね」と和田さん。「だってれい子さんは海軍大佐の娘で、大金持の家の育ちなんだからだから。当時の海軍って言ったら、日本のトップでしょう。つまり超エリートの家系で超お嬢様。しかも美人で頭脳明晰でしょ」

そう、前掲書『評伝★湯川れい子 音楽に恋をして♪』によると、ペンネーム「湯川れい子」こと本名・湯野川和子さんの父親は海軍大佐の湯野川忠一。父の従妹は山本五十六の妻で、海軍大将・黒井悌次郎はれい子さんの大叔父にあたる。駒沢ゴルフ場(現在の駒沢オリンピック公園)近くの一等地に400坪以上の敷地を誇り、建坪70を越える2階建ての家は、広い庭の真ん中には築山が配され、竹林が広がり家庭菜園まであった。近所では「湯野川様のお屋敷」と呼ばれたという。そんな環境の中、末っ子のれい子さんの朝は<姉やが運んで来る“おめざ”で始まる>なんて記述もある。まさに和田さんが言う「超お嬢様」である。

「沼津の田舎で育って父親が蒸発した私とは正反対じゃない?(笑) でもこれ、書いちゃったられい子先生、怒るかなあ。一度、言われたことがあるの。先生はそういう人でそういう育ちだから、いつも正しい人でいなきゃならない、それがとても苦しいって。その点、和田はいつも自由で好き勝手に生きてて羨ましいって。ああ、そうなのかって思った。それはなんか、ずっと覚えてるんだよね」

「そういう本音は、和田さんには言う人なんだ?」

「う〜ん、どうかなあ。ただ、当時のれい子先生は小林明子さんの「恋におちて-Fall in Love- 」(ドラマ『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』の主題歌)とかが大ヒットしてた頃で、まさに飛ぶ取り落とす勢いで売れてたから、おべっか言う人しか来ないんだよね。私も入って3カ月くらいはしおらしくてたんだけど、そんなことしてたら気が狂うとか思って(笑)。だからこっちが本音だから、先生も本音でしゃべってくれたのかもしれない。決して何でも気安く話せる人ではないけど、でも、日常なわけじゃない? ずーっと一緒にいるんだから」

「勤務は一応朝10時くらいには行って、ご自宅兼だから、息子さんもご主人いるわけじゃない? 夕方になって晩ご飯の時間になると、帰っていいことになる。ただ、何ンかの事情で息子さんとご主人がいないときがあると、れい子先生は寂しがり屋だから、そういう日は『今日は誰も居ないから、残ってご飯一緒に食べていって』というのがけっこうあったかな。あとは近所で買い物があるから、散歩ついでに一緒に行こうとか、それはしょっちゅうだった。でもそういう時って、けっこうポロッと買ってくれるのよ、洋服とか。しめしめ、みたいな(笑)」

そんな生活の中で、和田さん自身も「音楽ライター」としての仕事が増えていく。デビューページとなった『ミュージック・ライフ』(シンコー・ミュージック)の音楽ビデオ批評のコーナーに加え、海外の音楽雑誌を翻訳して情報を紹介するニュースのページの担当することになった。また、投稿を続けていた『ミュージック・マガジン』(ミュージックマガジン社)からも原稿依頼を受けるようになる。特にアメリカのジョージア州出身のロックバンド「R.E.M.」は、特集記事を書いたことをきっかけに「R.E.M.命」になり、その後、自費で世界中のツアーを追いかけることになるという。

R.E.M.はソニック・ユースやニルヴァーナ、グリーン・リヴァーなどと同様、アメリカ各地にある大学が運営するFM局、通称「カレッジ・ラジオ」から登場した、「オルタナティヴ・ロック」とカテゴライズされるグループだ。それはいきなり6ページの特集だった。和田さんはそれまでUKロックを中心に聴き、執筆してきたので、編集の人には「私、R.E.M.なんて聴いたことないですよ」と言ったのだが、当時R.E.M.は「謎めいたバンド」と言われ、語りたがる、語り過ぎるライターが多かったという。そこで、先入観のない和田さんのような人に書いてほしいと頼まれた。

「突然、出てるCD全部渡されて、エヅキながら聴いたの。そうしたらハマッちゃったんですよ、これが(笑)」

しかし、そうやって自身のライター業が多忙になるにつれ、当然無理は出てくる。

「ある日、倒れちゃったのよね。原稿はれい子先生のところから帰って自宅で書いてたから、〆切に追われると当然寝られなくなるわけで、疲れ果てちゃって、下血しちゃったのよ。それで入院しちゃって。『ああ、これは辞めよう』と思った。うん、病名は結局分からなかった。過労とストレスじゃないかって。ある晩、すっごくお腹が痛くなってトイレで倒れて、これはヤバイって救急車呼んで。でも、救急隊の人が来てくれたらホッとしたのか『アレ、大丈夫かな?』ってくらい楽になったんだけど(笑)。『とにかく乗りなさい』って言われて、素直に聞いといてよかった。案の定、病院に着いたらもう大下血で、そのまま緊急入院。1週間、24時間点滴。何も食べられなくて、スッゲー辛かった、アハハハ」

驚いたお母さんは沼津から慌てて駆けつけ、退院したところで「辞めさせてください」とお願いしたら、れい子先生も「そうだね、和田も忙しくなったから無理だよねえ」と言ってくれた。

オアシス、ブラー、ビョーク、好きな人だけに会いたいと思った

こうして和田さんはフリーの音楽ライターとして独立することになる。湯川れい子先生の元には約6年半、20歳から26歳まで、約6年半いたことになるそうだ。

「そこから華麗なる洋楽ライター時代が始まるんでしょ?」と聞くと、「全然華麗なんかじゃないわよ、私はずっと底辺なんだから」と言う。

「でも、『おでんの汁にウツを沈めて 44歳恐る恐るコンビニ店員デビュー』(幻冬舎文庫)には、海外までレコード会社のアゴアシ付きで、有名アーティストのインタビューに出かけたって書いてたじゃない?」

「それは私に限らず、当時音楽ライターだった人は誰だってやってたのよ」とのこと。

また海外アーティストが来日すると、彼らが宿泊している六本木プリンスホテルやキャピトル東急ホテルへ出向き、通訳の人と共に数多くの人にインタビューした。ただし、そんな中でも和田さんが貫いていたのは、「自分が会いたい人に会う」ということだった。

「私はリック・スプリングフィールドやホール&オーツなんかの、アメリカのミュージシャンから入ったわけだけど、その後はUKロックが好きになったから、UKロックの人にはたくさん会わせてもらったよね。オアシスはデビュー直後から何回も会ったし、ブラーも好きだったから、何回もインタビューした」

和田さんが何気なくそう言うと、同席していた〈Z TOKYO〉編集部のKくん(1990年生まれ)は、「えーっ、オアシスに会ってるんですか、しかも何度も!」と言った。他にも女性シンガーが好きだったことから、ナタリー・マーチャントやビョークにもインタビューしたという。

「ビョークは面白かった、というか変だったなあ。まだシュガーキューブス(ソロになる前に所属していたバンド)の時代だったけど、全然質問に答えてくれなくて、ずーっと踊ってるのよ。バンドには旦那さんでギタリストのソーっていう人(ソー・エルドン)がいたから、その人が『すみません』みたいなこと言って(笑)。私に謝るんだよね。それでボクが代わりに答えます、みたいな感じで。すごいいい人だった。後に別れちゃうんだけどね」

ライナーノーツ(CDに付属する解説書)も数多く手がけた。ただし、「すごいいっぱい書いたけど、何を書いたかはほとんど忘れちゃった(笑)」とのこと。

「というのはすごい量のCDが出てたんだもの。いわゆるCDバブルって、日本全体のバブル経済が終わって落ち込んでから始まってるんです。J-POPのCDがむちゃくちゃ売れた時代があったじゃないですか? 私は邦楽は書かなかったけど、洋楽のCDもやたら出てた。だから需要がすごく多かった」

日本の音楽市場は、再生機(CDプレイヤー)の普及と、人気テレビドラマやCMとのタイアップ戦略で、若年層の購買が爆発的に増加したことによって空前の「好景気」時代が到来した。調べてみると1997年にシングルの年間販売数(日本レコード協会集計対象シングル、8cm+12cm)が1億6,782万7,000枚を記録、翌1998年には、CDアルバムの年間販売数が3億291万3,000枚とピークに達したらしい。なるほど、米米CLUBの「君がいるだけで」289万枚が1992年、Mr.Children「Tomorrow never knows」276万枚は1994年、DREAMS COME TRUE「LOVE LOVE LOVE」248万枚は1995年と、すべてバブル崩壊以降だ。また、TRF、篠原涼子、hitomi、H Jungle with t、dos、globe、華原朋美、安室奈美恵ら、いわゆる「小室哲哉ファミリー」がミリオンセラーを連発したのは、主に1994年から1999年の間だったそうだ。

「洋楽CDのライナーノーツを書くときって、レコード会社が資料をくれるの?」と聞いてみた。実は、個人的にとても知りたいことだった。というのは数年前、Apple Musicのライナーを書く仕事をもらったことがあった。ところが、間に立つ広告代理店は一切の資料は提供しないという。「プロのライターなんだから書けるでしょ」というわけだ。しかしプロであろうとアマチュアであろうと、そのアーティストに関する知識がなければ書けるはずがない。楽曲を聴き込むのと同時に、海外のサイトまでネットを検索しまくり、翻訳機能を使ってなんとか調べたのだけど、インターネットの無い時代の音楽評論家の人たちは、いったいどうしていたのだろうと疑問だったのだ。

「資料はある場合もあれば、この作品に関しての資料は一切ありませんって言われるときもあるの」と和田さんは言う。

「私がCDのライナーを山ほど書いた頃には多少ネットが普及し始めてたけど、その前は雑誌よね。海外の音楽雑誌。私の場合は『NME(ニュー・ミュージカル・エクスプレス』)と『メロディ・メーカー(Melody Maker)』、このイギリスの二大音楽誌は定期購読してて、バックナンバーは全部取ってた。昔のインタビューとか載ってるから、ひっくり返して全部見て。何しろ整理なんてしてないからさ(笑)、探して探して、「あー、載ってたー」って見つけて、訳して。当時そのアーティストが言ってた発言があったとしたら、その時とは少しサウンドや歌詞が違ってるとか、そこから膨らませて書くとか、だよね」

「実はこれ、れい子さんから教えてもらったの。『洋楽の仕事をするんなら、いかに資料を持っているかがまずは大切』って。もちろん、文章を書くってことに関しては他にも大切なことはあるんだろうけど、やっぱり何もないところからは書けないじゃない?」

そうなのだ。「この曲、いいです」ということは本職のライターでなくとも、一ファン、一視聴者でも言える。プロの物書きであるならば、その音楽が生まれた背景や歴史的必然性といったものを踏まえて書かなければならない。そのためには、先人の記した資料が大切になる。

「今みたいにネットのない時代、特に海外ではヒットチャートを記録した本とか、アーティストのバイオグラフィ本とか、当時はいっぱい売ってたのよ。だから取材でも遊びでもイギリスとかに旅行に行くと、HMVとかヴァージン・メガストアーズとかには必ず行って、探して買ってた。日本の洋書屋さんとかにもあるにはあるんだけど、高いのよ。だから海外に行くたびにマメに探して買った。雑誌も、『NMEや『メロディ・メーカー』は直接申し込んで定期購読するとそれほど高くなかったんですよ。そういう洋楽雑誌は、『ミュージック・ライフ』なんかの編集部でももちろん買ってたんだけど、会社経由で来るせいか、けっこう遅かったんだよね。その点個人で買ってると早くて、私のところの来るのが誰よりも早かったりしたから、それもライターとしては強みで、『和田さんは一番早く持ってるから』って、『情報出してください』って言われたりね」

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FMラジオ番組の構成作家から、大きな転機となる仕事を手がけるまで

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