ライターズ(Writers)〜「書く」ことを職業にした人々~
第2回:梅原淳(鉄道ジャーナリスト)前編

WEBマガジンにおいて最も重要と言える「文章」を生み出すライター。彼らが書いた文章は我々の目に触れ心を動かすが、そのプロセスを知る機会は少ない。しかし、彼らにもそれぞれの人生があり、数多の夢や挫折を経て培われたプロフェッショナリズムが存在する。
そこで、ライターによるライターへのインタビューを敢行。インタビュアーは東良美季氏。AV監督、音楽PVディレクター、グラフィック・デザイナーなど様々な職を経験した彼が引き出すライターたちの魅力に触れてもらいたい。


第2回のゲストは、情報ワイド番組『ひるおび!』(TBS系列)のコメンテーターとしてもお馴染み、鉄道ジャーナリストの梅原淳さん。三井銀行(現・三井住友銀行)勤務、老舗鉄道雑誌『鉄道ファン』(交友社)の編集者を経て、2000年よりフリーランスに。著書には『新幹線不思議読本』(朝日文庫)、『毎日乗っている地下鉄の謎』(平凡社新書)他の鉄道雑学本から、『ビジュアル日本の鉄道の歴史3昭和後期〜現代編』(ゆまに書房)といった鉄道史、さらには『JR崩壊 なぜ連続事故は起こったのか?』(角川oneテーマ21)、最新作の『JRは生き残れるのか』(洋泉社)と、安全面・社会経済の側面よりジャーナリスティックに分析するなど、多数かつ多岐にわたる。WEBサイト『東洋経済オンライン』の人気コーナー「鉄道最前線」執筆者の一人でもあり、全国各地での講演活動や、行政・自治体による鉄道調査への協力なども精力的に行っている。2018年4月からは福岡市地下鉄経営戦略懇話会の委員も務める。

梅原淳さんはアダルト誌という狭い世界に生きていた僕に、巨鯨が泳ぐ大海を見せてくれた人だった

梅原淳さんと知り合ったのは2006年だ。メールを頂戴したのがきっかけだった。しかし「最初はどんなやりとりをしてましたっけ?」と尋ねても、今ではお互い、「何でしたかねえ」と思い出せない程の長いお付き合いになった。その前年、僕は「毎日jogjob日誌」という日刊更新のブログを始めた。おそらくそれを読んで連絡をくださったのだと思う。というのもブログを始めてすぐ、我が家の猫が病気になってしまった。そして当初はライターとしての日常を綴るつもりだったものは、猫の闘病日記になってしまった。梅原さんも奥様と息子さんと3人で猫と暮らしておられたので、他人事とは思えぬところがあったのではないか。僕の相棒猫は10カ月の闘病の果てに亡くなり、その日々は『猫の神様』(講談社文庫)という一冊の本になった。
思えばあの頃、インターネットを通じて様々な人と知り合った。僕はアダルト誌と呼ばれる分野の媒体で、アダルトビデオの紹介記事やAV女優さんへのインタビューなどを書いていた。だからというわけでもないのだが、梅原さんがメールで「私は鉄道ジャーナリストをしております」と丁寧に自己紹介してくださっても、「そうか、世の中にはそういう職業があるのか」という、何とも的外れな感慨しか持てなかった。冷静に考えれば鉄道に関する雑誌や書籍は大量に出版されているし、「撮り鉄」「乗り鉄」などなど、「鉄道ファン」と呼ばれる人も多い。だからそのジャンルで活躍するライターやジャーナリストの方々がおられるのは分かりそうなものだ。つまりそれほど僕は世間が狭かったのだ。

そして2009年、『新幹線、国道1号を走る─N700系陸送を支える男達の哲学』(交通新聞社新書)という本を共著で書かせてもらった。これは愛知県豊川市の日本車輌製造豊川製作所で製造された新幹線N700系の車両が、約46キロメートル離れたJR東海浜松工場までどのように運ばれるのかを追ったノンフィクションである。新幹線は(秋田、山形などの、いわゆる「ミニ新幹線」を除いて)車体が他の路線のものよりも大きい。故に在来線や私鉄各社の車両のように、工場から引き込み線で運ぶことができない。船で輸送する場合もあるが、この豊川製作所─浜松工場間はなんと深夜、巨大トレーラーに乗せ一般道を走らせ運ぶのだ。
梅原さんが新幹線の歴史的な部分や技術面などを、そして僕が主にドキュメント部分を担当して書いた。専門の鉄道ライターに執筆を依頼するよりも、僕のような門外漢に書かせた方がその驚きが読者に伝わるだろうという、梅原さんの企画意図だった。

確かに、その行程は刺激的だった。N700系の車両は先頭車(1号車・16号車)が全長27.35メートル、その他の車両でも25メートル。そんな巨大な鉄の物体が公道を走るのだ。その姿はハーマン・メルヴィルの長編小説に登場する「白鯨」が、深夜の国道1号線をゆったりと泳いでいくようだった。また、トレーラーを正確に操りかつ安全に輸送していく、日本通運中部重機10人の男たちの姿も魅力的であった。
つまり梅原淳さんは、アダルト誌という狭い世界に生きていた僕に、巨鯨が泳ぐ大海を見せてくれた人でもある。

梅原淳。1965年6月6日東京都世田谷区生まれ。

「ええ、東京生まれなんです。駅でいうと小田急線の経堂です。なのでよく『小さい頃から鉄道がお好きだったんですか?』と聞かれまして、その通り赤ん坊の頃からロマンスカーをずっと眺めている子どもだったそうです。もっとも私はまったく覚えていないのですが(笑)。父が転勤族でして、全酪連、全国酪農業協同組合連合会というところの職員だったんです。それで転々としました。杉並区の善福寺、その後は横浜の山手町、小学6年から中学3年まではサンフランシスコで暮らしました」

奇しくも第1回のゲスト、北尾トロさんのお父さんは全農(全国農業協同組合連合会)の職員で、転勤が多かったと聞いた。幼少の頃に各地を転々とするという経験は、子どもに何か文章を書かせる素養を与えるのだろうか。ともあれ、思春期をサンフランシスコで過ごされたという話は、以前にお聞きしたことがあった。
「全酪連ですから、要は牛に与える飼料の買い付けのために赴任したんですね。サンフランシスコというのは日本への輸出の拠点なんです。船会社がたくさんありまして、当時は高度経済成長期ですから、トヨタやホンダの車を乗せた船が着くわけですけれど、帰りは船倉が空になるわけです。そこで飼料を積むと喜ばれたという話を聞いたことがあります。輸送費も安くついたんじゃないでしょうか? ですから父親はアメリカでもしょっちゅう出張に出てましたね。シカゴやミネアポリス、デンバーといった、いわゆる穀物ベルトに買い付けに行くわけです」

「どういう子ども? うーん、自分自身のことはよく分かりませんが、横浜にいた頃は面白い環境だったと思います。同じ学校の同じクラスの子とだけ遊ぶのではなくて、地域の小学校高学年から低学年の子まで一緒になってワイワイやっていた。作家の桐島洋子さんが近所にお住まいだったんです。桐島さんのお子さんは、一番有名なのがモデルの桐島かれんさんですが、次女の桐島ノエル(エッセイスト)さんが私と同じ小学校の同学年で、その下のローランド(写真家)君が遊びに来たこともありました。文字通りのはなたれ小僧でねえ、将来あんな端正な顔立ちの若者になるとは誰も思わなかった(笑)。そうですね、横浜という土地柄、ハーフの子も多かったですね。まだベトナム戦争中で、米軍基地がありましたから、お父さんが軍人さんだったり軍関係者だったり。それと、山手から坂を下りると中華街ですから、クラスには王さんとか謝さんとか、中国系の子も多かった」

鉄道に興味を惹かれたのも横浜時代だった。
「先ほどのロマンスカーというのは記憶にはないんですが、おそらくその時点で好きにはなっていたんでしょうね。小学3年くらいになると、一人で電車に乗りに行くような子どもでした。どうやって行ったのかなあと後々思い出してみますと、山手町から保土ヶ谷駅までバスが出てたんですね。それが25円でした。安かったですね。そこから横須賀線の電車で横浜駅まで行って、桜木町駅まで根岸線の電車で戻って来る。桜木町駅から山手町まではやはりバスがあったんですよ。そうすると全線100円でひと周りできるんですね。そんなことをしてましたね」

「特に横浜駅では、しばらくホームにいてやって来る電車を見ていたんです。その頃はもう新幹線が走ってましたから、いわゆる〈こだま型(国鉄20系電車〜181系電車)〉と言われる特急電車は全然走ってはなかったんですが、例えば〈荷物列車〉なんていうのが来るんですね。鉄道小荷物、今で言う宅配物を運ぶ列車です。〈郵便車〉というのもありました。これは国鉄ではなくて郵政省が持っているものなんです。だから豪華なんですね。何しろ冷房が付いていた。中で仕分けをするので、その人たちのためにです。通勤電車でも冷房は付いてない時代です。つまりその頃は形ですよね。一般の通勤列車とは明らかに違うものが面白い、寝台列車とか。そういうものに出会えると嬉しいというような興味だったと思います」

そして小学6年からサンフランシスコへ。
「そうですね、特に嫌だなというような気持ちもなく、父親の仕事だからと付いて行ったように思います。まあ、最初は言葉には戸惑いましたけど、でも、一年くらいで授業にはついていけるようになりましたね。年代で言うと1977年から80年までなんです。当時のヒット曲を並べてみると時代が分かると思うんですが、行った時にステーヴィー・ワンダーの『サー・デューク(邦題:愛するデューク)』が流行ってた。全米シングルチャート1位で。それからちょっとしたら映画『サタデー・ナイト・フィーバー』がブームになって、一連のビージーズの主題歌がヒットして。次の年にはドナ・サマー、ディスコ・ブームになるという頃です」

アメリカでも鉄道への興味は続く。
「サンフランシスコというのは、車社会のアメリカでは、際立って公共の交通機関の多い街なんです。有名なのはケーブルカーですけど、路線バスも多くてトロリーバスもある。私が最初住んだのは市内南西の外れサンセットという街で、路面電車(サンフランシスコ市営鉄道 通称:Muni)が走っていました。どうも路面電車には縁があるというか、まあ、私が好きなので目に付くだけかもしれませんが(笑)、母の郷里、広島の家の目の前にも路面電車(広島電鉄)が走っていたんですね。そして実は日本の路面電車は1950年代にアメリカのものを参考にして作ったんです。戦争で技術的に遅れていましたから。一方のアメリカの路面電車は1930年代に大革新を起こしまして、世界中がそれを参考にしたという歴史があるんです。そんな1930年代や40年代に作られた路面電車が、私がいた頃、77年頃にはまだ現役で走っていて、それに乗れたり間近に眺めたりできた。今は博物館とかに展示されている車両です。これは今思うと貴重な経験でしたね」

長編の世界名作文学を読破するのと同時に、古書店巡りでサブカルチャー雑誌を読み耽った

中学3年の終わりに日本へ戻った来た梅原少年は、東京学芸大学附属高校大泉校舎(現・東京学芸大学附属国際中等教育学校)に入学する。ここは海外からの帰国子女向けの学校だそうだ。「ええ、帰国子女ばっかり、隔離病棟みたいな」と梅原さんは苦笑する。

1学年60人、4クラスで15人ずつ。当時東京で帰国子女を受け入れていたのはICU(国際基督教大学)高校や、都立では三田高校か竹早高校しかなかった。海外には「飛び級」があったりして卒業歴が違うため、受け入れる学校が少なかったそうだ。
「部活は、野球とかやりましたけど、つまり人数が少ないので夏の全国大会予選とかにかり出されるわけです。ただ私はどうにも学校に馴染めなくて、というか、後々同窓会とかで会うと皆、海外生活とのギャップからか『馴染めなかったねえ』なんて言ってるんですが(笑)。それで私は自転車競技を始めるんです。高校1年の9月に自転車を買って。今は高いですけど、当時はお年玉や入学祝いの貯金程度で買えたんですね。最初は一人で乗ってたんですが、そのうちに町のクラブに所属するんです。きっかけですか? まだアメリカにいた頃ですけど、『ヤング・ゼネレーション』(監督:ピーター・イェーツ)という映画を観たんです。あれは、主人公が自転車競技をやる話なんですね」
自転車競技がお好きというのも、取材か打ち合せの合間に聞いたことがあった。確か僕がフランスの高速鉄道「TGV」に乗ったことはおありですか?と尋ねた時だ。梅原さんは「あります。ただ、取材ではなくて、『ツール・ド・フランス』(ヨーロッパで行われる国際自転車プロロードレース)を観に行ったついでだったんですが」と答えたのだ。

このように、梅原少年は高校から大学にかけて世田谷区弦巻にあった自転車クラブに所属し、西武園競輪場や京王閣で行われるトラックレースや、ロードレースなどに出場して過ごす。実はこの経験が後にジャーナリストへの道へと続くのだが、それはもう少し先の話になる。それよりもまず、10代の頃の読書体験について聞いてみた。

「それには二つの方向がありまして」と梅原さん言う。「いわゆる世界名作文学みたいなものが割と好きだったんです。ドストエフスキーとかトルストイとかですね。ただし、何というか、『長編を読破するのがスゴイことだ!』みたいな意識がありまして(笑)、わざわざ長いものを選んで読んでたんですよ、『モンテ・クリスト伯』とか。そういう変な子どもだったんです。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』に挑戦して、さすがにさっぱり意味が分からなくて挫折したり」

「もう一つは、アメリカから帰ってきて住んだのが東急電鉄東横線の都立大学駅だったんです。今、東京都立大学は首都大学東京に名称が変わって場所も移転しましたけど、当時は学生街でしたから、古本屋さんがたくさんあったんですね。中学、高校時代、やたら古本屋さん巡りをして入り浸って、手当たり次第に面白そうな本を探してました。ボロボロになった『ゲバラ日記』とか。後は雑誌ですね。やはり80年代というのは雑誌が面白かった。例えば平岡正明さんなんて人は、特に雑誌のコラムとかだとまさに書き飛ばしているような勢いのある文章で、今でも覚えている文章があるんですが、それは佐川一政の事件(パリ人肉事件、1981年)があった頃で、『パッケージなどに商品とは直接関係ない水着の女性の写真を使うのはやめろ』と。なぜかと言うとアフリカのある国で日本の缶詰のラベルに水着女性の写真が使われていところ、現地の人は中に人肉が入っていると勘違いしたと。おそらく冗談というかホラ話なんでしょうが、ああ、なんて面白い発想をする人なんだろうなんて思いましたね」

「後は音楽が好きだったので、ロックの雑誌とかも古本屋にはバックナンバーがど〜んと積まれていて、『rockin'on』(ロッキング・オン発行)なんてのも、あの頃は執筆者も投稿者も好き勝手なことを書いてました。もう、嘘か本当かにわかには分からない。海外アーティストのインタビューなんかも、『ココまで言うか!』というくらい過激でしたよね。ザ・スミス(イギリスのロック・グループ)のリーダー、モリッシーなんかは『王室なんて廃止しろ』とか、『ミート・イズ・マーダー(Meat Is Murder)』というアルバムがありましたけど、『牛肉を食うのは惨殺と同じだ、お前が口に入れ楽しんでいる肉の味、それは虐殺の味なんだ』なんて発言をしてる。過激というのか自由というのか、そういうものを読んで『へーっ』と驚いていたような気がします」

正統的なものと異端なものとが同居する──これは後々お話を伺っていくと、決して読書体験に限らない、梅原さんの感性の特徴のように思えて興味深いところだが、ところでそんな少年時代、将来文章を書く仕事に就きたいという希望はあったのだろうか? それを尋ねると、
「いえいえ、それはまったく」という答えが返って来た。
「大学に入って、4年になって就職活動をする、つまり進路を考える段になっても、いや、就職しても尚、頭の片隅にすらなかったです」
ただ──、と梅原さんは続ける。
「アメリカにいた時、中学2年の夏休みですけれど、アムトラック(北米全土をほぼ網羅する大陸横断鉄道網)に乗って旅行をしたんです。それは私が『どうしても乗りたいから』と父親に頼み込んだんですね。サンフランシスコからシカゴまで、52時間の旅です。で、私はまったく忘れているんですが、そのことを新学期になって作文に書いたらしくて、それを親が日本の全酪連の協会誌のようなものに送ったようなんです。で、それが載ったと。だから書くということは、嫌いではなかったのかもしれませんね。何を書いたかですか? いやあ、それも覚えてないんですが、何しろアメリカの鉄道というのは車窓から見える景色が単調なんですね。ワイオミング州なんかは一日中ずーっと砂漠ですし、次のアイオワ州はトウモロコシ畑が延々と続く。ただ、そういう中でも保線、線路のメンテナンス作業をしている人がいるんです。アメリカというのはほとんどの鉄道が貨物輸送ですから、彼らも客車というものが珍しいんです。だからものすごく歓迎して手を振ってくれる。おそらくそんな思い出を書いたんじゃないでしょうか」

私は典型的なバブル世代なんです。70年代の人たちのような反骨精神はないし、90年代以降の大変さもない(笑)

そして青山学院大学卒業後は三井銀行に入行する。この点をお聞きしたかった。銀行という安定し、お給料もいいであろう仕事に就いたものの、なぜそこを辞めて出版業界に入られたのか? けれどこれに対しても、「いやいや、そんな、特に何かを考えたということはないんです」と梅原さんは照れたように笑う。
「確か以前にも東良さんから聞かれたような記憶もあるんですが、何か強い決意があって出版の世界に飛び込んだとか、そもそも銀行の業務に格別な疑問を抱いて辞めたとかいうわけではないです。というのも私は典型的なバブル世代なんです。平成元年の入行ですから。何しろ三井銀行はその年新卒で350人採ってるんです。それでも足りなくて私のいた青学にでさえ、欠員の募集が来たくらいですから。それは銀行に限らずメーカーなんかも同じで、OB訪問というのがあるんです。卒業して企業に入った先輩が勧誘に来る。つい乗ってしまうともう取り込まれてしまって、別の会社は受けられなくなる。そんな時代です」

1989年が開けて1月7日、昭和天皇が崩御して「昭和」が終わり、1月8日から「平成」が始まった。6月、北京では天安門事件が起こり、11月にはベルリンの壁が崩壊するなど世界は激動の時代を迎えていたが、国内では任天堂が「ゲームボーイ」を、トヨタは「セルシオ」を発売するなど好景気に浮かれていた。夏には前年から続いていた連続幼女誘拐殺人事件の犯人・宮崎勤が逮捕されるが、巨大ディスコではボディコン姿のギャルが踊り、歓楽街ではタクシーが止められない状態が続いていた。
「就職先としてはJTBとか全日空とかがすごい人気で、後はテレビ局をはじめとしたマスコミ、大手出版社とかですよね。そんなところはとても入れそうにない。となると給料がよくて安定しているところがいいんじゃないかという。一番ダメなのは、『周囲からの受けがいいところ』という考え方ですよね。就職課やゼミ、友だちに『あそこならいいんじゃないの』と言われる企業を探すという」

確かに。僕は梅原さんより7才年上だが、そういう傾向は我々の世代から既に始まっていた。秋になるとどの大学のキャンパスでも、「誰々は内定をいくつもらった」「東京海上に受かった」「フジテレビに入った」という噂が羨望と嫉妬の眼差しで飛び交った。
「私たち80年代の若者って、本当にダメなんですよ(笑)。70年代の人たちのような反骨精神はないし、90年代以降の大変さもない。一番ダメな世代」と梅原さんは自嘲する。
「就職課でさえ『君は何がやりたいんだ』という話は一切ない。とにかく『内定のもらえるところを受けなさい』と。それで私は経営学部でしたから、一応、簿記や銀行論の講義は受けていたので、じゃあ、銀行でいいかなあという、本当に情けない選択で(笑)」
究極の売り手市場だった当時は、内定をもらった学生は囲い込まれる。旅行やレジャー施設に連れていかれ、他社に取られないようにするわけだ。思えばすごい時代である。若き日の梅原青年もそうだった。
「映画館で『クロコダイル・ダンディー2』(監督:ジョン・コーネル)を観たのを覚えてます。その後は豊島園に男ばっかり何十人もでゾロゾロ行って、夜になって食事をして帰されるという(笑)」

そうやって入った銀行マンとしての仕事は、決して面白くなかったわけではないという。ただ入行の翌1990年、三井銀行は太陽神戸銀行と合併する。バブルが崩壊に向かい、早くも銀行の再編が始まったのだ。一般的には新入行員は3年は同じ支店にいるものなのだそうだが、日比谷の本店勤務だった梅原青年はわずか1年で大阪は大阪市営地下鉄(現・大阪メトロ)四つ橋線の四ツ橋駅近くの、大阪西支店に転勤になってしまうのである。
「入行2年目ながらそれなりに責任ある仕事を任されて、馴れない土地でしたが、まあ楽しく充実してやってはいたんです。外回りのエリアを指定されて、地名でいうと九条、本田(ほんでん)、境川と、町工場が密集してるところです。そういう町工場の社長さんと会って、当時はまだ集金もありましたから、話のついでに融資や預金なりを引き出せればというわけです。ただその1990年の夏というのが、大阪は記録的な暑さでして、どこかで無理してたんでしょうね、ある日貧血を起こして倒れてしまった。お恥ずかしい話、朝礼の最中です。もう小学生レベルのエピソードですね(笑)。それで這うようにして病院へ行ったら盲腸ですと言われて、結局入院せずに済みましたけれども。そこから少し考えるようになった。自分の人生、この先もこれでいいんだろうかと。同時に支店長が合併にともなって着任した人で、はりきってノルマが急に厳しくなって、上司とか先輩たちもぎくしゃく、支店内の雰囲気が悪くなっていた」

銀行員をしながら自転車クラブの手伝いをしていた休日、スポーツ記者という職業を知った

そして実は梅原氏には、銀行に入ってからおぼろげながらも気づいたことがあったという。
「夏にその出来事があって、結局翌年の春に辞めてしまうわけですが、まだ東京の本店にいた頃です。新人でさほど忙しくありませんから、休日には自転車クラブの手伝いをしていたんです。競技会というのは大抵日曜日に開かれますから、車に自転車を乗せて会場まで運んで、選手たちのサポートをする。全国レベルの大会とかなので、マスコミというか、雑誌の人たちが取材に来ているんですね。ベースボール・マガジン社から出ていた『自転車競技マガジン』の記者とかです。そこで初めて、ああ、こういう仕事があるんだと思ったんです。不思議ですよね。自分が選手として出ている時も取材はあったんでしょうが、気にも留めてなかった。おそらく自分にはまったく無関係な世界だと思っていたから、視界にすら入ってなかったのでしょう」

「さらに、ある国際大会で自転車クラブのスポンサー企業から選手の成績、何位になったとかにですね、それに競技の写真を付け加えて報告してくれという指示があったんです。それで誰がやる? という話になって、私がたまたま趣味の鉄道写真を撮るために一眼レフを、中古のニコンFM2を持っていたんです。それで『じゃあ、梅原くんやってくれ』ということになって。するとパスをもらって記者席に座らせてもらって、プロのカメラマンがいる横で写真を撮るわけです。弁当とかも支給されて(笑)。その時、周りのそういう記者さんたちを見ていて、そうか、こういうことを仕事にできたらいいなあなんて、勝手に考えてしまった。それが大阪に行ってからもずっと頭の片隅にあったんです」

そういう動機だったので、漠然とスポーツ関係の出版社にでも入れればと思っていた。しかし大阪にて、梅原氏は長年愛読していた雑誌『鉄道ファン』(交友社)の誌面に「編集者募集」の文字を見つける。盲腸を患い今の仕事に疑問を感じ始めた年の終わりであった。
「ええ、『鉄道ファン』は横浜にいた小学生時代から読んでいました。バックナンバーは取ってあって、1974年の号が今も自宅にあります。ただ大学生になった頃からは、毎号必ず買うということはなくなってました。特に就職してからは年に一度くらいですね。新年号にはカレンダーが付録で付くんです。今のようにスマホで日にちや曜日が確認できるわけでないですから、まあ、カレンダー欲しさに買っていた。その号に募集記事が載ってたんです。だからこの号に出ていなかったら、また違った人生になっていたでしょうね」
年が明け、有給を取って東京に戻り面接を受けた。すると新年度からの採用が決まる。

『鉄道ファン』の発行元・交友社は、1934年(昭和9年)に設立された。元々は旧国鉄や各鉄道会社の鉄道教習所(動力車操縦者養成所)で使用する教本を制作していたという。戦前のベストセラーは蒸気機関車乗務員・機関士向けの『機関車の構造及び理論(上・中・下巻)』というから、どういう版元であったかそれなりに想像できる。それが戦後になって鉄道関係者から鉄道趣味雑誌の出版を打診され、『鉄道ファン』を発行してみるとこれが大好評で、部数も伸び現在に至る。創刊は1961年。現在は通巻600号を越えている。ちなみに梅原さんが在籍中、400号を迎えたとのこと。
公称22万5,000部。これは2006年5月の数字だそうだから、現在は多少落ちているかもしれないが、それでも出版不況と言われる2000年代以降に於いては、まさに驚愕の部数である。しかも、さらに驚くべきことがあった。


(後編へ続く)
ライターズ(Writers)〜「書く」ことを職業にした人々~第2回:梅原淳(鉄道ジャーナリスト)後編


写真=川上 尚見
取材・文=東良 美季

#CULTURE

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