ライターズ(Writers)〜「書く」ことを職業にした人々~ 第6回 佐野亨(映画ライター/編集者)後編

第6回のゲストは、映画ライターで編集者の佐野亨さんです。代表作に渡部幻さんとの共編による『ゼロ年代アメリカ映画100』 、『90年代アメリカ映画100』他の「アメリカ映画100シリーズ」(芸術新聞社)。ご自身で企画・編集から執筆まで関わった『心が疲れたときに観る映画 「気分」に寄り添う映画ガイド』(立東舎)。『クリント・イーストウッド 同時代を生きる英雄』、『大林宣彦 「ウソからマコト」の映画』、『高畑勲 〈世界〉を映すアニメーション』(以上、河出書房新社「文藝別冊」シリーズ)や、『アウトレイジ』(2010年 監督:北野武)、『捨てがたき人々』(2014年 監督:榊英雄)、『ベイビー・ドライバー』(2017年 監督:エドガー・ライト)など、劇場用映画パンフレットの編集にも多数関わっておられます。

卒業制作のドキュメンタリー映画で、〈劇的なものを背負った人物〉〈圧倒的な他者〉と出会う

さて、日本映画学校時代の話に戻ろう。同校では2年生から専門的なコースに分かれる。現在の日本映画大学ではコース名などが少々違っているようだが、佐野さんが通っていた頃には主に劇映画の監督を目指す〈演出コース〉、脚本家を目指す〈シナリオコース〉、技術職を養成する〈撮影照明コース〉などがあったが、佐野青年はドキュメンタリー映画の制作に特化した〈映像ジャーナルコース〉を選択する。

「1年生の頃には間違いなく〈演出コース〉を志望してたと思うんです。ただ、さっき言ったように『自分は監督には向いていないかも』という気持ちともうひとつ、『書く』とか『調べる』ということに、だんだん興味の比重が向き始めたんだと思います。それと〈映像ジャーナルコース〉は、言わば映画制作に関わることの、一から十まで学べるんです。まずは企画を立案して題材を探して、企画書を書いて、コース内の皆に「こういうものをやりたい」とプレゼンする。決まったらアポイントメントを取って、スタッフを編成する。スタッフ編成といっても少人数なので、結果的には全部やることになります。カメラもフィルムではなくDVカムですから全員で回すし、「演出」と言っても、学生だし素人なので、どうしても探り探りになるから、一応監督という役割はいますけど、『これはこういう方向じゃないか』と意見を戦わせながら撮影を進めるので、結局は全員が演出みたいなもんなんですね。実はこれ、後にライターになり編集者になる上でも、とても役立っているんです」

そして冒頭でも書いたが、〈映像ジャーナルコース〉その2年時の担任が、森達也監督によるドキュメンタリー映画『A』、『A2』等のプロデューサーとして知られる安岡卓治氏であった。ちなみにやはり最初の方で書いた松江哲明、島田隆一、今田哲史といった監督たちも、同じ〈映像ジャーナルコース〉の出身である。

「安岡さんは何しろプロデューサーなので、非常に論理的というか、理詰めで映画というものを考える方なんですね。例えば森達也さんや園子温さんのような作家と組んで作品を作る場合、背後にいて、表現者が感覚的に突き進んでいく過程を俯瞰で見ながら、『この映画を現代の社会に位置づけたときに、どういう意味を持つか?』というようなことを常に考えておられる人だと思うんです。だから僕ら学生に対しても、『今、撮るべき題材は何なのか?』ということを問うわけです。『この時期、この時代にいる、君たちの世代でしか撮れないもの(題材、テーマ)を探しなさい』ということを言われる。そういう背景があったので、松江哲明さんがご自身の在日3世というアイデンティティを追った『あんにょんキムチ』(2000年)のような作品が生まれた。他にもお父さんと監督本人の関係性を描いた、茂野良弥監督の『ファザーレス 父なき時代』(1997年)や、引き籠もりのお兄さんと自分とを描いた小林貴裕さんの『home』(2001年)他、日本映画学校にセルフドキュメンタリーの系譜があるのは、やはり安岡さんの存在が大きいと思います」

そして3年生になると安岡氏から、『ゆきゆきて、神軍』(1987年)等で知られる原一男氏へと担任教諭が代わった。そこで佐野亨青年も、原氏の指導の元、卒業制作に着手することになる。

「原さんが強く主張されたのは、『自分が圧倒的な他者と対峙したときに、作り手もそれに飲み込まれるように作品が出来ていく』ということだったと思います。言わば安岡さんが言う『君たち自身とは何かを掘り下げろ』の先にあるものですよね。原さんが撮って来られたのは、第1作の『さようならCP』(1974年)ではCP(脳性小児麻痺)でありながらかなり過激な活動家でもあった方たち、2作目『極私的エロス 恋歌1974』(1974年)では原さんの元恋人でストリッパーの武田美由紀さん、そして『ゆきゆきて、神軍』では奥崎謙三さんと、〈何か劇的なものを背負った人物〉なんですね。だから僕たちにも〈自分たちを飲み込むほどの劇的な〉取材対象を見つけなさいと言われた」

ゼミの総勢は約15名。それが4班程度に分かれて卒業制作に向かう。佐野さんたちも4名のグループで取材対象を探した。最初は引き籠もりの若者に密着しようと、彼らを支援するNPO団体に接触してみた。ところがそもそも他人を拒絶して引き籠もっている人たちなので、協力してくれる対象者はなかなか見つからなかった。そこで担任の原一男氏から「自分の知り合いでこういう人がいるから、一度会ってみないか」とのサジェスチョンを受ける。

大阪在住の30代前半の女性で、原氏が淀川区十三の映画館で自作の特集上映をした時、突然声をかけてきて、「私を撮ってください」と言って来た人物だった。

こうして後に『私をみつめて』(2005年 監督:木村茂之)という作品となる撮影が始まった。

彼女、河合由美子は摂食障害の後遺症で逆に肥満してしまい、それが原因で長らく引き籠もりを続けていた。しかもそんな思春期に父親から「デブ」「ブス」と精神的な虐待を受けたことから、同じ屋根の下に暮らしながら10年以上口を利かない、顔も合わせていないという女性だった。佐野青年ら4人のチームは、当初3カ月ほどで撮り切る予定だったこの作品に、半年余の時間を費やすことになる。

「これはもう、本当に大変な撮影でした。とにかくその河合由美子さんが強烈な女性で、そもそもあの原さんに『私を撮ってください』と直談判するような人ですから、かつて引き籠もりだったとは信じられない強烈なバイタリティがあって、自己主張がものすごく強いし、『私のことを分かってほしい、理解してほしい』という気持ちがとても強い。ある意味、奥崎謙三さん的な(笑)。20代の前半から30代前半までだからもう10年くらいは引き籠もってたわけですが、まるでその時間を取り戻すかのように、『次はこういうのを撮って欲しい』『次はこれを』と、彼女がむしろ我々を主導するような形で撮影が進んでいったわけです」

河合由美子さんはまさに失われた時間を取り戻すように、かつて働いていた北新地のバーへ出向きお世話になったママと再会し、高校の同級生で、同じく摂食障害を患っていたという女性に会いに行き、さらには姉の住むニューヨークへと旅立つ。そして作品のクライマックス。彼女は引き籠もりの間に、実はウェブサイトを立ち上げ〈ネットアイドル〉のような存在になっていた。しかもそれは太っている自分ではなく、まったく別人の美少女の写真をどこからか持って来て、「これが私です」と名乗っていたのだ。それはまだインターネット草創期、「若くて可愛い女の子が面白いことを発言している」と話題になり、そんな中で知り合った男性を彼女は好きになっていた。そして思い悩んだ果てに、彼に会いに行って嘘をついていたことを告白しようとする。

「監督は木村茂之くんという、今はアイドルの出演するネット番組とかを撮ってる人で、僕はプロデューサーという役割でした。他に撮影と照明を担当する同級生が男女1人ずつのチームですが、前にも言ったようにほぼ全員がカメラを回しますし、4人で侃々諤々、議論して反目し合いながら撮影は続きました。最終的には河合由美子さんがそんな虚実の中で、自分という存在は何なのか?――を問うていくというのがテーマになるわけですけど、その会いに行った男性からは『俺は痩せた女が好きなんだ』なんて言われて、彼女の精神状態はボロボロになっていきます。その場に立ち会う我々も、この現実とどう立ち向かえばいいのか?――という問題を突き付けられる。実際、河合さんからは『アンタたちも私をバカにしてるんでしょう!』とかものすごく攻撃されるし、真夜中にガンガン電話がかかってくるわで、どんどん追い込まれていって、それで結局、半年もかかってしまった。でも、あの時間は本当に濃かった。まさに原さんのおっしゃっる〈圧倒的な他者〉と対峙する経験でした」

映画『私立探偵 濱マイク』の舞台から、韓流ブーム真っ直中の映画雑誌編集へ

結果的には納得のいく作品が完成し、ドキュメンタリー作品や新人作家の自主制作映画などを上映することで知られるミニシアター「ポレポレ東中野」(東京都中野区)で公開もされた。しかし撮影が延びに延び、学校からは「これ以上完成が遅れたら〈卒業制作作品〉と認められない」とまで言われたギリギリの完成だったため、佐野さんはその後の進路など「考える暇もないまま卒業してしまった」という。

「普通なら、卒業制作をやりながら就職活動もするんでしょうけど、僕の場合はそんな余裕はとてもなく、何のあてもないまま社会に放り出された形で、完全にプータローです。さてどうしたものかと(笑)」

とりあえずアルバイトをしようと探したところ、自宅からさほど遠くない横浜市中区の映画館「横浜日劇」に職を見つける。昭和28年創業のレトロな建物で、林海象監督の映画『私立探偵 濱マイク』シリーズ(1994年〜1996年)のロケ地に使われた(永瀬正敏演じる探偵・濱マイクが、劇場の2階部分に探偵事務所を開業しているという設定)有名な映画館である。時給850円ほどと安かったが、幸い佐野青年は実家暮らし。映画は観られるしシフトも比較的楽で、近所に横浜市中央図書館という大型図書館もあったので、本好きの彼は仕事のない時はそこに入り浸り、読書三昧の悠々自適な日々を送る。しかし世の中そう上手くいかないもので、半年も満たない期間で「横浜日劇」は閉館となってしまう。

「福寿祁久雄さんという名物支配人がいらして、『横浜日劇」以外にも『シネマ・ジャック&ベティ』、『関内アカデミー』といった映画館を経営し、横浜の映画シーンを長年見続けてきたという伝説の興行師なんですけど、その人の会社「中央興業」が映画不況やシネコンの台頭のせいか傾いて、全館一斉に閉めることになってしまったんです。それで僕も当然辞めなければならなくなり、また無職に逆戻りです」

またもや朝から晩まで図書館に入り浸って本ばかり読む生活になるものの、その合間にネットカフェでアルバイトを探した佐野さんは、偶然、新宿にある「シネマハウス」という小さな出版社が、アルバイトを募集しているのを見つける。これが、彼が後に映画ライターになるきっかけになるのだが、ただし募集していたのは経理の担当者だった。

「そこで、中学時代の演劇で出がらしになって、無為に過ごした高校時代が初めて役に立つんです(笑)。色々と資格を取らせる学校だったので、僕は一応、簿記検定2級を持っていた。いや、実際はまったく数字に弱い人間なんですけど(笑)。それで面接のときに『簿記検持ってます、映画も好きで、日本映画学校卒です』とアピールして、入れてもらうことが出来た」

「シネマハウス」は洋泉社で『キーワード事典』や『朝までビデオ』シリーズといった書籍を編集していた斎藤進という編集者が代表を務め、妻で映画評論家(主にアジア映画)の大和晶と共に経営していた出版社。映画関連の書籍のほか、、1997年にはウォン・カーウァイ監督の『恋する惑星』に端を発する新感覚の香港映画ブームを受けて、アジア映画を中心に据えた映画雑誌『Movie Gong(ムービー・ゴン)』を創刊。その後、ペ・ヨンジュン主演のドラマ『冬のソナタ』から始まった韓流ブームの到来にあわせ、次第に韓国エンターテインメント専門誌としてのカラーを強めていった。佐野さんが入社したのはその頃である。

「経理で入ったので、最初はレシートの計算とかしてたんです。会社には自社で制作したり資料として買ってある映画の本がたくさんあるので、暇な時は読んだりも出来て、ああ、いい会社だなあと(笑)。で、ある日、社長の斎藤さんからとある俳優さんの取材テープがあるので、これを文字起こしして小さなカコミ記事にまとめてくれと言われたんです。何しろ小さな会社なので人手が足りないんですね。それでやってみたら『うん、君はまとめが上手いし、こういう仕事に向いてるね』と言ってもらえて、何本かやっているうちに『じゃあもう、事務の方はいいから編集の方に回ってくれ』ということになったんです。入って3カ月くらいだったでしょうか」

「その頃僕がやったのは、当時はまさに韓流ブーム真っ直中で、ヨン様(ペ・ヨンジュン)とかチャン・ドンゴンとか、ウォン・ビンとかあの辺のスターが来日して、毎日のように赤坂プリンスホテルなんかで『ファン・ミーティング』と称したイベントをやっていたんです。そういう取材にいって、オバサマたちが『キャー!』と言ってる後ろから写真を撮って記事を書いたりした。『Movie Gong(ムービー・ゴン)』では当初の路線通りに香港映画も扱ってましたから、アンソニー・ウォンやサモ・ハンが来日すると取材に行きました。ジャッキー・チェンから映画好きになった僕としてはすごく楽しかったですね。それと、新米の編集者として台割り(雑誌のページ毎に何の企画が入るのかを書き込む構成表)の組み方なんかは初歩から教えてもらいましたけど、例えば企画書作りやアポイントメント、取材やテープ起こしなどの一連の作業は、日本映画学校で学んだドキュメンタリー映画作りとたいして変わらないんですね。その意味では、〈映像ジャーナルコース〉での体験がすごく役に立っているんです」

2010年、転機となる仕事が巡って来た

このように幾つかの偶然から出版社に入り、編集者の道を歩み始めた佐野さんだが、卒業した頃にはどんな将来へのヴィジョンを抱いていたのだろう?

「う〜ん、結局ひたすら卒業制作を作り上げることだけを考えていたので、そこからは完全に流れに任せて来てしまったんですね。映画監督になりたいという意識があって映画学校に入ったけれど、何かちょっと違うなと思い、映画について考えるとか書くとかいうことの方が向いてるのかなとは思っていたけど、とは言え、出版社に入って編集者を目指そうとは考えたことがなかったです。ただ、それでも何かしら映画と接点を持っていたいなと思ったから、映画館でアルバイトを始めたんだと思います。だからあのまま潰れなければ、社員になって映画館で働くのもひとつの手かなとは考えていた。ただ文章を書くのは好きだったので、映画について書いたものをネットに上げたりはしていたんですよ。でも、例えばそれを『キネマ旬報』とかに投稿しようとかいう気持ちはまったくなくて、まあ、ブロガーみたいなものですよね。でもそれで充分満足はしてたんで、商業的な書き手になろうとかいう意識はそれほどなかった──」

そう語ってから少し考えて、佐野さんは「うん、たぶん、なかったと思いますね」と言った。

しかし、そうやって入った出版社も、1年近く経った時に退社することになる。

「今思うとものすごく無謀なんですが、会社の規模が少し大きくなって新入社員が数名入ったんですね。そこで僕は直接関係はなかったんですが、経営側と新人たちの間で色々と齟齬があって、おそらく世代間ギャップというか、映画に対する情熱とモチベーションの隔たりだったと思います。たまたま僕の下に入った女の子が辞めるタイミングで、『じゃあ、僕も辞めようかな』という、何とも後先考えない感じで」

ただ、佐野さんが担当していた『Movie Gong』のビデオ紹介のコーナーがあって、会社に残った先輩から「引き続き佐野くんにやってもらいたいから、外部のフリーライターとして記事を頼む」と言われる。

「そういうわけで、結局自分が編集で関わっていた『Movie Gong』で、フリーライターとして初めて署名原稿を書くことになるんです」

その後は『Movie Gong』で知り合ったカメラマンから、『TokyoWalker(東京ウォーカー)』や『OZmagazine(オズマガジン)』といった、街歩き情報誌やレストランガイドの取材などを紹介され手がけるようになる。

「じゃあ、フリーライターの最初は、映画の分野に限らなかったわけだ?」と僕。

「ええ、そうです。映画関係と言えばその『Movie Gong』のビデオ紹介と、「シネマハウス」時代の関係で、TSUTAYAやゲオの出している広報誌の映画欄、ストーリー紹介の記事を書くとかそのくらいで。文芸誌で小説家のインタビューをしたり、受験生向けの歴史ガイド本を書いたり、それこそ東良さんのご専門だったアダルト誌の仕事もやりましたよ。笠倉出版(老舗のアダルト系出版社)から出てた写真投稿誌のネーム(写真に付ける文章)を書いたり、読者から送られて来た投稿写真も選んだし。他にも風俗誌『MAN-ZOKU』(プレジャー・パブリッシング)の仕事では、横浜の風俗嬢の女の子にインタビューしたり。とにかく依頼されたもの、縁のあったものは何でもやろうと思って、すべて断らずやってましたね」

そんな佐野さんに転機となる仕事が巡って来る。2010年になろうとする頃である。

「日本映画学校の先輩で松江哲明さんたちと同期の、岸川真さんという作家で編集者の方がおられるんですが、その岸川さんが芸術新聞社から『だれでも書けるシナリオ教室』(2010年)という本を出すことになったんです。その時、編集担当者の方が岸川さんに『誰か注釈を付けてくれる人はいませんか?』と聞いて、岸川さんが推薦してくださったのが僕だったんです」

『だれでも書けるシナリオ教室』(芸術新聞社)はA5版224ページ(プラス、岸川氏オリジナルの『フレッシュ!』という脚本が46ページ分付く)の書籍で、下段にびっしりと膨大な数の注釈が付いている。例えば本文に『スタンリー・キューブリック』、『マーティン・スコセッシ」と監督名が出てくればその人物についての説明があり、『ブレードランナー』『13日の金曜日』と映画タイトルがあれば、それについての簡潔なストーリーと解説が書かれるという、実に緻密で骨の折れる作業である。ただし読んでいくと、佐野さんが苦労しながらも楽しみながら書いたことが窺い知れる文章である。

「その『だれでも書けるシナリオ教室』の担当が、芸術新聞社の根本武さんという編集者でした。そして『また一緒に何か本を作りたいですね』という話で、根本さんが僕に引き合わせてくれたのが渡部幻さんという方だったんです。渡部さんは草森紳一さん(評論家・エッセイスト)のご子息で、草森さんは2008年に仕事場にしていた門前仲町のマンションで心不全で倒れて亡くなられたんですが、発見したのが芸術新聞社で草森さんを担当されていた根本さんだった。僕は草森紳一さんの愛読者でしたから、そんな縁もあって引き合わせてもらった。で、この渡部幻さんという人が、まあ尋常ならざる映画好きで、古い雑誌とかもすごい量コレクションしていて、すごい知識を持っておられて、文章力もあって、若い頃から『キネマ旬報』に投稿をしていたという人なんです」

「そうやってお会いしたときに渡部さんがおっしゃったのが、ちょうど2010年、つまり00年代が終わった時期で、この10年間の間にアメリカ映画というものがかなりドラスティックに変わったと。それは『9.11 アメリカ同時多発テロ』を初め、社会的な背景と密接に結びついているので、そういう世界の動向も加味した形で、カタログとしてこの10年間を総括するような、アメリカ映画の本を出したいということでした。そこから渡部さんと僕とで企画を揉んで、根本さんが担当してくださって作ったのが、『ゼロ年代アメリカ映画100』 (芸術新聞社 2010年)という本だったんです」

映画について書くこと、映画の本を作ることについて

「これをやらせてもらったのが、僕にとってはすごく大きかった。通史としての10年間をカタログにするという大変な作業で、ものすごく手間もかかって、1冊を作るのにほぼ1年かかりました。映画はすべて観直したし、テーマもすごく相談を重ねてかっちり定めて、書き手も誰に依頼しようかと頭を悩ませながら決めて、しかも1人1人の方に直接会いに行って、すべて面と向かって綿密な打合せをして、合議で作っていった。本当に大変だったけど、貴重な体験だったと思います。その本を通して、町山智浩さん、芝山幹郎さん、中原昌也さん、滝本誠さんといった、その後もことあるごとにお世話になっている方々と知り合うことが出来ましたし」

『ゼロ年代アメリカ映画100』はA5版320ページ。『だれでも書けるシナリオ教室』同様、下段にはびっしりと注釈が付けられている。さらに、町山智浩氏以外にも、今野雄二氏、映画監督の黒沢清氏他の執筆陣はいるが、彼らは途中に挟み込まれる長めのコラムを書いているのであり、短いものでも1ページ、その多くが見開き2ページ、長いものは3ページにわたるカタログとしての映画解説部分の大半は、渡部幻氏と佐野さんが執筆している(渡部氏が42本、佐野さんが31本)。それに加え注釈の執筆、インデックス作り、対談の構成、映画会社から写真を取り寄せる作業などなどを鑑みると、もう頭がくらくらしそうな労作である。

「幸いなことに『ゼロ年代アメリカ映画100』は、そういう決して一般的な映画本でないにも関わらず部数が出て、すぐ2刷にもなったので、じゃあ、シリーズ化しましょうということになり、『90年代アメリカ映画100』、『80年代アメリカ映画100』、『70年代アメリカ映画100』、『60年代アメリカ映画100』と、遡る形で10年分ずつの書籍を作っていったんです。まあ、どれも毎回毎回本当に大変で、もうノイローゼになるくらいの勢いで(笑)。夜中に書き手のところに行って、この映画はどういう切り口にしようかと、朝までコンコンと詰めたりした。結果、力不足でいま思うとやり足りなかった部分もあるけれど、こんなに手間をかけた映画本はないんじゃないか、という自負はありますし、あのシリーズをやったおかけで仕事の幅も広がったし、他にも『こういう本をやらないか』と声をかけてもらったり、自分で企画を出しても割と通りやすくなったと思うんですね」

以降、佐野亨さんは冒頭にも書いたように、僕も執筆に参加させてもらった『心が疲れたときに観る映画 「気分」に寄り添う映画ガイド』(立東舎)を自ら企画、編集と執筆を担当。他にも河出書房新社の「別冊文藝」シリーズでは、『クリント・イーストウッド 同時代を生きる英雄』(2014年)、『大林宣彦 「ウソからマコト」の映画』(2017年)等の編集を手がけている。最新刊は『高畑勲 〈世界〉を映すアニメーション』(2018年)である。

そんな佐野さんに最後に、改めて映画について書くこと、映画の本を作ることについて聞いてみた。

「そうですね、僕がテレビで映画を観ることから始まり、映画の解説を聞いたり、テレビ雑誌の紹介記事を読んで映画がさらに好きになったという経験があるので──批評や研究という敷居の高いものも、自分でも読むし、必要だとは思うんですけど──ひとつ大切にしたい路線に、〈カタログ本〉というものがあるんですね。ええ、『ゼロ年代アメリカ映画100』や『心が疲れたときに観る映画 「気分」に寄り添う映画ガイド』(立東舎)に代表されるものです。それはやはり、『日曜洋画劇場』における淀川長治さんの解説であったり、テレビ情報誌『TeLePAL (テレパル)』の増淵健さんの文章にも通じるものだと思ってます。川本三郎さんにも、『スキ・スキ・バン・バン』(1980年 ブロンズ社 共著:小藤田千栄子)という著書がある。これは後に『ポケットいっぱいの映画─映画ディテール小事典AtoZ』(河出書房新社)と改題された、まさに映画にまつわる事柄をアルファベットの「A」から「Z」まで並べたものです。他にも川本さんの流れで『ハッピーエンド通信』(加賀山弘編集長による幻のアメリカ文化雑誌。川本三郎、常盤新平、青山南が編集委員を務め、小説家デビュー直後、まだ一般的には無名だった村上春樹が執筆していたことで知られる)関連の書籍では、『ヴェトナム以後のアメリカ ヘビー・ピープル123』(常盤新平 川本三郎 青山南共同編集 ニューミュージック・マガジン社 1979年)という、実に面白くて役立つ人物カタログもありました」

「ああいう形でパッと開いて、どのページからでも読んでいけて、人物とか映画についてコンパクトに解説されている本。僕はああいうものを読んで、基礎情報みたいなものを教え込まれた読書体験があるので、大切にしたいなという気持ちがあります。今、映画批評や映画研究というのが、ある意味で専門化され過ぎてる気がするんです。と言うのも僕と同世代、30代、もしくはもう少し若い方で映画本を出されているのは、圧倒的にアカデミズムの方が多いんですね。大学で映画をものすごく深く研究されてるとか、映画のある一分野に特化した論文をものしてるとか、そういう方が自分の専門分野について本を出すということはあるんですが――もちろんそれはそれでとても意義深いものですが――、昔のようにカタログとして間口が広くて、でも、ちゃんと読んでいくと噛み応えがある本というのが少なくなってる気がする。だから〈カタログ本〉と言うとすごく軽く聞こえちゃうかもしれないけど、決してそんなことはなく、ある種普遍的なもの、という気がします。誰しもちょっとしたきっかけで映画ファンになったり、偶然にある作品を観たことによって世界が広がる。ならばそういう人に対してある種の道しるべというか、その作品を観たのなら、こっちも関連性があるから観といた方がいいよ、というような。もちろん映画だけを観ていてもいいんだけど、その後にカタログ本を読むとその背景とかがカバーされて、さらに映画が面白くなるという。そういうことを啓蒙と言ったら僭越だけど、少しでも読者に伝えられたらと。そういう本って、やっぱり必要じゃないかって思うんですね」

映画とは決して〈情報〉ではなく、その人の〈体験〉なのだ

さらに、映画を語る文章、言葉について──。

「川本三郎さん、そして僕は海野弘(評論家。美術から映画、建築、都市論と幅広い分野に執筆)さんもとても好きなんですが、ああいう方々って、もちろん膨大な知識をお持ちで、圧倒的に含蓄に富んでるんだけど、文章はものすごく平易ですよね。そして平易でありながら、その表現はオリジナリティに富んでいる。実に唯一無比で絶妙な言葉を探して来られると思うんですね。僕が最近の映画評論に関して思うのは、『情報を、情報を』という時代になり過ぎていると気がする。つまり自分の知らない情報を与えてくれたりするのが、価値ある映画評だと思われている。もちろん情報に価値はあるんだけど、でも、もっと大切なことは、自分の知っている情報を、どういうふうに読者に伝えるかが一番重要じゃないか?――そこで大切なのはその人にしか持ち得ない文体であったり、何よりその人の持つ人間観や人生観、世界観といったものになる気がするんですね」

なるほど。つまり「文体」「語り口」とは、その人「個人」というフィルターを通すから生まれるものだ。そう言われてみると淀川長治さんの映画解説などは、あの「コワイですねぇ」から「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」まですべて、淀川さんという人そのもの、彼の人生そのものではないか?

「そう考えてみると、映画というのは決して〈情報〉ではなく、その人の〈体験〉なんだ、という気がしてくるよね」と僕は言ってみる。

僕も執筆に関わらせてもらった『心が疲れたときに観る映画 「気分」に寄り添う映画ガイド』(立東舎)のあとがきで、佐野さんはDVDや映像配信の発達に伴い映画を観ることが容易くなった。それはとても幸せなことではあるのだが、そこには映画が単なる〈情報〉になってしまう危険性も孕んでいる。そんな中で彼は、

<そこにはいま一人、「映画は体験なのだ」と断固として言い張りたい自分がいる。>

と書いている。

その言葉に強く共感しながらも、自分の中でもうひとつ明確に捉えかねていた。それが今、分かったような気がした。

例えば和田誠さんの名著に『お楽しみはこれからだ─映画の名セリフ』 (文藝春秋 1975年)があるけれど、あれはビデオやDVDがなかった時代、映画館に通い詰めた和田さんの記憶に基づいて書かれている(イラストレーションも)。そのせいか和田さんご自身が、「後で観直してみたら、記憶していたはずの〈名セリフ〉が無かった!」と明かしているそうだ(『みんな酒場で大きくなった』 太田和彦・著 河出文庫、太田和彦氏と大沢在昌氏の対談より)。

「ええ、僕もそれを思ってました」と佐野さん。

「僕がとても尊敬する編集者で映画評論家の高崎俊夫さんが、以前、『記憶違いも含めて映画体験なのだ』という言葉を教えてくださいました。もとはオペラ演出家の三谷礼二さんがおっしゃったことだそうです。その人がなぜそんな記憶違いをしたのかと言えば、背景には必ずその人のパーソナリティがある。その人の人間観や人生観とかが、有りもしないことを補っているかもしれない可能性があるわけです。そう考えると、映画とは単なる映像ではなく、ましてや情報でもなく、観客である僕らの人間性がプラスされて、やっと完成するものなのかもしれない。そんなふうに思ったりするんですね」

佐野さんは『心が疲れたときに観る映画 「気分」に寄り添う映画ガイド』のあとがきで、この書籍を企画した背景に、自身が身体を壊してしまった体験を語っている。約2年間、時には身体が言うことを聞かず散歩にも出られず電車やバスに乗るのも辛いという状況の中で、すがるような思いで自宅にあるDVDやブルーレイで映画を観直してみた。するとそこには、「それまでとまったく違った感想を持ったり、以前に感じたことがよりくっきりと形をなすように」感じた自分がいた、と。

「映画館だと、何十人、何百人という人が、同時に同じ映画を観ますよね」と最後に佐野さんは言った。

「そうすると、当たり前の話ですけど、十人が十人、百人が百人、それぞれ違った感想を持つ。ならば映画について書くとき、映画の本を作る時には、個人がその映画に対して何を思うのか、そこに何を投影するのか? その部分を重視しなければダメなのではないか。病気をしてしまったこともあって、僕の中でその考え方が、より強くなった気がするんですね──」


写真=川上 尚見
取材・文=東良 美季

#CULTURE

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