ライターズ(Writers)〜「書く」ことを職業にした人々~ 第6回 佐野亨(映画ライター/編集者)前編

WEBマガジンにおいて最も重要と言える「文章」を生み出すライター。彼らが書いた文章は我々の目に触れ心を動かすが、そのプロセスを知る機会は少ない。しかし、彼らにもそれぞれの人生があり、数多の夢や挫折を経て培われたプロフェッショナリズムが存在する。
そこで、ライターによるライターへのインタビューを敢行。インタビュアーは東良美季氏。AV監督、音楽PVディレクター、グラフィック・デザイナーなど様々な職を経験した彼が引き出すライターたちの魅力に触れてもらいたい。



第6回のゲストは、映画ライターで編集者の佐野亨さんです。代表作に渡部幻さんとの共編による『ゼロ年代アメリカ映画100』 、『90年代アメリカ映画100』他の「アメリカ映画100シリーズ」(芸術新聞社)。ご自身で企画・編集から執筆まで関わった『心が疲れたときに観る映画 「気分」に寄り添う映画ガイド』(立東舎)。『クリント・イーストウッド 同時代を生きる英雄』、『大林宣彦 「ウソからマコト」の映画』、『高畑勲 〈世界〉を映すアニメーション』(以上、河出書房新社「文藝別冊」シリーズ)や、『アウトレイジ』(2010年 監督:北野武)、『捨てがたき人々』(2014年 監督:榊英雄)、『ベイビー・ドライバー』(2017年 監督:エドガー・ライト)など、劇場用映画パンフレットの編集にも多数関わっておられます。

日本映画学校(現・日本映画大学)の出身の佐野亨さんとは、幾つかの縁があった

佐野亨さんとの付き合いはいつからだったのだろうと考えて、調べてみるとメールソフトに記録が残っていた。2011年の4月、当時彼が編集と執筆に関わっていた映画情報サイト『intro』に、大島渚監督の著書『わが封殺せしリリシズム』(清流出版)の書評を依頼されたのがきっかけだった。佐野さんのメールの文面は「先日はmixiの方より失礼致しました」とある。あの頃はSNSと言えば「mixi」が主流だった。今でもFacebookのメッセンジャー経由で未知の編集さんより連絡を受けることがあるが、思えばそういう、人と人との新しい出会いの形が始まった頃のことであった。僕の方もちょうど旧知のAV監督・長江隆美が『WORTHLESS WOMEN 抜けない女』という一般映画を自主制作したばかりであり、紹介してもらえる媒体を探していた。そこで佐野さんにお願いしてみたところ快諾して頂き、レビュー原稿を掲載してもらうことになった。震災の年だった。同作の試写会があったのは、被災地から遠く離れた東京でも、やっとのことで計画停電が終わったばかりの3月下旬。長江に直前に電話して、「試写会、予定通りやるの?」と尋ねたことを今でもよく覚えている。

翌2012年、伝説の映画監督であり元日本赤軍メンバー、足立正生氏を被写体にしたドキュメンタリー映画『美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう / 足立正生』が公開され、フランス人監督のフィリップ・グランドリュー氏が来日した。配給会社からの依頼で足立氏を交えたインタビュー原稿を書いたものの、配給先が予定していた媒体への掲載がとある事情で取り止めになり途方に暮れた。困った挙げ句にまた佐野さんにお願いして、これも『intro』に掲載してもらうという出来事もあった。ただその時点でもまだ実際にお会いすることはなくメールだけのやりとりだったが、それでも交流の糸が切れなかったのは、共通の知人が何人かいたからだろう。

佐野さんは日本映画学校(現・日本映画大学)の出身であり、在学中は森達也監督によるオウム真理教を扱ったドキュメンタリー映画『A』(1997年)、『A2』(2001年)等のプロデューサーとして知られる、安岡卓治氏に師事していた。僕が安岡さんと知り合ったのは1997年だ。長江隆美と同様、長い付き合いのAV監督・平野勝之が、2005年に逝去することになるAV女優・林由美香と共に北海道まで自転車ツーリングをするという異色のアダルトビデオ作品『東京〜礼文島41日間 自転車ツーリングドキュメント わくわく不倫旅行』(V&Rプランニング)を撮った。それを高く評価し、映画として劇場公開することに動いたのが安岡氏だった。平野と安岡さんとのタッグは翌1998年の『流れ者図鑑 さまよえる全ての人々へ』、そして『白 THE WHITE』(1999年)と続く。その関係もあって上映会や打ち上げ等で、僕と安岡氏はしばしば顔を合わせることになる。1999年に僕が初めての単行本『アダルトビデオジェネレーション』(メディア・ワークス)を出版したとき、いち早く電話をくれて「いい仕事をされましたね」と励ましてくれたのも安岡さんだった。

平野勝之のAV作品『東京〜礼文島41日間 自転車ツーリングドキュメント わくわく不倫旅行』は『由美香』と改題して劇場公開されたが、その際に宣伝を手伝ったのが、当時はまだ日本映画学校の学生だった松江哲明である。その縁もあって松江は同校の実習作品のテーマにアダルトビデオ業界を選び、林由美香にもカメラを向ける。しかしその作品『裸の履歴書』(1997年)を観た由美香の感想は、「松江クン、まだまだね」だったという。松江はその後在日3世である自身のルーツを追った日本映画学校卒業制作作品『あんにょんキムチ』(2000年)で長編デビュー。自主映画作品としては異例の超ロングランを記録した『童貞。をプロデュース』(2007年)も手がけるが、常にもう一度林由美香を自分の作品に、と願い続けていた。だが先に述べたように林由美香は2005年に亡くなり、その夢は叶わぬままに終わる。そして松江は2009年、そんな亡き由美香の幻影を追いかけるようなドキュメンタリー映画『あんにょん由美香』を制作する。

松江哲明は2002年頃から、平野勝之の盟友でもある、AV監督・カンパニー松尾によるアダルトビデオメーカー「HMJM(ハマジム)」に出入りするようになり、『前略、大沢遥様』『アイデンティティ』(共に2003年)というドキュメンタリーAVを手がけることになる。僕はその頃から松江とも頻繁に顔を合わせるようになり、やがて松江の紹介で、日本映画学校の1学年後輩、今田哲史がHMJMに入社することになる。今田もまた安岡卓治氏の教え子であり、同校の卒業制作では『ゆきゆきて、神軍』(1987年)等で知られる原一男をプロデューサーに、ハンセン病患者に密着するドキュメンタリー映画『熊笹の遺言』(2002年)を撮った。松江はその後AV作品を手がけることはなかったが、今田は「タートル今田」の名で、人気AV監督として活躍することとなる。

彼の中には豊富な映画の知識があり深い造詣があり、本を作るための静かだが強い情熱があった

そして2013年、佐野亨さんからとある映画の試写があるので観にいってもらえませんか? と打診された。島田隆一という31歳と若い、無名の監督の第1作だった。『ドコニモイケナイ』という、ひとりの女性に10年という月日を跨いで追った作品である。

島田もまた日本映画学校出身であり安岡氏の教え子、佐野さんより1学年上、今田哲史とは同級生でごく親しい友人だと後から知る。これも実は2001年、同校の卒業制作として撮影が始まっていた。当初は故郷の佐賀からヒッチハイクで東京にやって来て、渋谷ハチ公前の街頭で歌を歌い絵を描いていた19歳の少女、吉村妃里を追ったものとして始まった。しかし彼女はやがて精神を病むようになり、統合失調症と診断される。結果、佐賀へ帰らねばならなくなり映画は未完のまま終わる。島田らスタッフも卒業しバラバラになるが、彼だけは10年間、企業VPの制作や映画の助監督等を務めながらも、残されたVTRにこだわり続けた。そして2010年、彼はもう一度カメラを携え佐賀へ赴く。再び、吉村妃里の今を撮り始めるのだ。一般公開に当たり佐野さんがパンフレットの編集を担当し、僕は解説を書かせてもらった。島田隆一はその『ドコニモイケナイ』で2012年、大島渚から森田芳光、北野武、岩井俊二という錚々たる名監督が受賞している、日本映画監督協会新人賞を獲得した。

結局のところ佐野さんと直接会ってお話をするのは、2016年の暮れを待つことになる。彼が企画し翌2017年4月に刊行されることとなる、『心が疲れたときに観る映画 「気分」に寄り添う映画ガイド』(立東舎)の執筆者に入れてもらうことになり、その打ち合せのためだった。新宿紀伊國屋本店前で待ち合わせ、喫茶店に入り気がつくと3時間語り合っていた。僕と佐野さんは年齢が24歳違う。まさに親子ほど歳が違うわけだが(今回のインタビューで、お母さまが僕より2つ歳下だと知った)、にも関わらずココまで話が合ったのは、彼の中に豊富な映画の知識があり深い造詣があり、そして何よりライターとして編集者として、本を作るための静かだが強い情熱があったからだと思う。

その時佐野さんが語ったことで特に印象深かったのは、1970年代を中心としたアメリカン・ニューシネマについてのことだった。当時の作品には例えば、『いちご白書』(1970年)のキム・ダービーとブルース・デイヴィソン、『バード★シット』(1970年)、『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』(1971年)のバッド・コート、『わらの犬』(1971年)のスーザン・ジョージのように、その時代だけに輝きを放ち、まるで作品内の登場人物と同化して昇華してしまったかのように、次の時代には姿を消した俳優が少なくない。もちろん『卒業』(1967年)のダスティン・ホフマンや『タクシードライバー』(1976年)のロバート・デ・ニーロ、『ディア・ハンター』(1978年)のメリル・ストリープのように、現代まで活躍し続ける名優もいる。しかし彼ら彼女たちは「演技派」という衣装を身につけ、変幻自在な変わり身によって生き延びたのではないか?――ならば逆に言えば映画という「一回性」の芸術の中で、まさに一度だけの人生を生き切って消えていった役者たちの方がむしろ潔い。いや、そういった「一回性」の切なさが溢れているからこそ、あの時代の映画は愛おしいのではないか。

それは日本映画も同様で、例えば『祭りの準備』(1975年)の江藤潤、『青春の殺人者』(1976年)の原田美枝子、『サード』(1978年)の永島敏行と森下愛子、『狂った果実』(1981年)の本間優二と蜷川有紀、『天使のはらわた 赤い淫画』(1981年)の泉じゅん。もちろん現在でも活躍されている方もいるのだが、これらの映画を思い出すたび、あの映画館のスクリーンの中にいた彼ら彼女たちは、今もその空間の中で生き続けているような気がする──僕らはそんな話を時間も忘れて語り合ったのだった。繰り返すけれど僕と佐野亨さんは干支で言えば二回り、まさに親子ほど歳が違う。そもそも今挙げた映画が封切られた頃、彼は生まれてすらいないのだ。また佐野さんは川本三郎、常盤新平、青山南といった、僕らの世代が10代の終わりから20代にかけて圧倒的に支持した、映画を含めたアメリカ文化に関する書き手の作品も、驚くほど読んでいた。この歳下の映画ライター・編集者に、映画について書くこと、映画の本を作ることに関する話を、いつかじっくりと聞きたいと思っていた。

小学生にしては映画に異様に詳しいので、〈映画博士〉のように扱われていた少年時代

佐野亨(さの・とおる)、1982年11月24日生まれ。東京都文京区の出身という記述が、Wikipediaにはある。

「正確に言うと、文京区は母方の家系がずっと住んでいたところなんです。我が家は僕が生まれてすぐ西葛西のマンションに引っ越すんですが、手狭だったので、とりあえずは母方の実家で育てられたんですね。西葛西も幼稚園に上がる前くらいまでなので、正直ほとんど覚えてないんです。その後、両親が埼玉県の所沢に一戸建てを買って、僕の記憶はそこから始まっています。バブル期で、西武セゾングループの開発がどんどん進んでいた頃です。所沢駅前の西武百貨店に映画館「シネセゾン所沢」が出来て、そこでスタジオジブリのアニメ映画なんかを観た覚えがあります。家の近所には小さなレンタルビデオ屋がありました。TSUTAYAやゲオはまだ参入してない時期で、どんな街にも個人経営のビデオ屋さんがあった時代ですね」

「父は目黒の出身です。だからウチは両親共に東京人なんです。母が1960年生まれ。父はそれより10歳近く歳上で、当時は銀行員でした。フォーク世代で、家にはアコースティック・ギターがあり、よく弾いて歌ってましたね、岡林信康とかフォークル(ザ・フォーク・クルセダーズ)とか。あの年代の人ってフォークソングと、もうひとつジャズなんですね。けっこう立派なオーディオセットがあって、よくジャズを流してた。母は世代的にもう少し下なので、洋楽のロックでした、レッド・ツェッペリンとか。父はさほど本を読まない人でしたが、母親が好きでしたね。ヘルマン・ヘッセとか、西洋の古典文学の文庫本が本棚に並んでいて、もちろん理解は出来ないんだけど、僕もゲーテの『若きウェルテルの悩み』なんかを小さい頃に拾い読みしてた。そういう意味では、両親の影響をまんべんなく受けているかもしれないですね」

「初めて観た映画は――記憶にある限りでは、休みの日の昼間にテレビで『大魔神』(1966年・大映)をやってたんですよ。それがすごく恐くて(笑)。映画館に初めて行った、その思い出は残ってないんです。たぶん『ドラえもん』とか、さっき言ったようにジブリ作品とか、そういうものに親に連れて行かれたんだと思います。それよりも僕の場合は、テレビなんですね。テレビの映画番組、洋画劇場なんかをけっこう小さい頃から観ていた。ええ、大人が観るようなものも普通に観ていたと思います。何しろテレビっ子だったんです。夕方の刑事ドラマ、『あぶない刑事』の再放送や、『タッチ』とか『うる星やつら』とかのアニメ。バラエティは『オレたちひょうきん族』がまだ放送されていましたが、僕は『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』派で。あの頃の加トケンのコントは、バブル期でものすごい予算をかけていたから、ほとんど映画と同じような感覚で観ていたのかもしれないですね。親もテレビを観ることに関しては寛容で、食事の時も大抵テレビは点いてました。その流れで9時から洋画劇場を観る。さすがに11時頃になると『いい加減に寝なさい』と言われましたけど」

「どんな少年だったんですか?」と聞くと、「うーん、あまり子どもっぽくない子どもだったと思います」という答えが返って来た。

「父親もインドア派なんですけど、それを引き継いでいるのか、外で野球をやったりサッカーをやったりということがまったくなかった。今でこそ観る方はそれなりに好きになりましたけど、子どもらしく少年野球に夢中になるなんてことはなかったですね。しかも、僕の世代だとテレビゲームが普及し始めた頃で、〈スーパーマリオブラザーズ〉とかが流行ってたんですが、それもほとんどやってない。2人兄弟で弟がいるんですが、弟はテレビゲーム好きで、友達を家に呼んでやったりしてましたけど、僕はゲームをやるヒマがあったら映画を観ていたいという。だからそういう意味で学校の友達とも共通の話題がないんです、強いて言えばテレビのバラエティ番組の話くらいで。映画の話でも、大人びた作品ばかり観てたせいか、友達と趣味が合ったという記憶がない。小学生にしては映画に異様に詳しいので、〈映画博士〉のように扱われて。何か『変わったヤツ』と思われていたかもしれないですね(笑)」

「子どもらしいと言えば、ジャッキー・チェンを初めとした香港のアクションコメディが好きになったということでしょうか。同時に『霊幻道士』(1985年)をはじめとする〈キョンシー映画〉にハマるんです。その辺からブルース・リーに遡って、一連のカンフー映画ですね。ええ、『少林寺』(1982年)とか、その辺りはひと通り観て。ただ、同時にテレビの洋画劇場は欠かさず観ているので、アメリカ映画、ヨーロッパ映画も観ているんです。今では考えられないですけど、あの頃は平日のゴールデンタイムや日曜の昼間なんかに、平然とヨーロッパの芸術映画をやってたんです。だからフェリーニの『道』(1954年)とか、ヴィスコンティの『ベニスに死す』(1971年)とかは、もちろん意味が分かってたとは思えませんが、香港映画と同列な感じで、普通に観ていました」

今思うとキューブリックの『時計じかけのオレンジ』には、倫理観を揺さぶられるようなところがあった

映画監督や映画評論家といった専門家でなくとも、「人生が変わった1本の映画」というものが、大抵の人にはあると思う。佐野亨少年の場合は何だったのだろう?

「中学に入って間もない頃だったと思います。レンタルビデオでスタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』(1971年)を借りたんです。きっかけは何か別の映画を借りたときに、予告編が入っていたんです。それ、すごく覚えてるんですけど、当時ワーナーホームビデオが『時計じかけのオレンジ』を初めてビデオソフト化したんですね。『2001年宇宙の旅』(1968年)はその前にテレビで観てるんです。その時はもちろんわけが分からなかったんだけど、映像のインパクトは大きくて、キューブリックという名前は頭に残っていた。なので『キューブリック幻の作品で、初めてビデオになります』的なキャッチフレーズと共に、劇場版の予告がそのまま入っていて、これは凄そうな映画だなと思って、観てみたら想像以上にとんでもない映画だった。強烈な体験でしたね」

「その〈強烈な体験〉を、言葉にするとどうなります?」と聞いてみた。

「まず、ストーリー云々の前に映像ですよね。それまで自分の慣れ親しんでいた映画の文法ではまったくなくて。クレジットタイトルが、いきなり真っ赤な画面で始まりますよね。続いてマルコム・マクダウェルのクローズアップで、あの片目だけつけまつげを描いた奇妙な顔でこちらを睨みつけている。これはもう、尋常ならざるものが始まったぞという(笑)。台詞もよく分からない、『ナッドサット言葉』(近未来の若者言葉とされるオリジナル言語。スラブ語に俗語やジプシー語を合わせて作られたと言われる〉という妙な言葉で。あの作品というとバイオレンスやエロスの描写が取り沙汰されますけど、それもただ映すのではなく、早回しにしたりしてポップで。つまり、単に筋を追うんじゃなくて、映像表現としての映画の面白さみたいなものを知ったキッカケになった気がします。確か同じ頃、アンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』(1972年)もレンタルで観ているんです。ひょっとすると〈SF映画〉というくくりで借りたのかもしれないんだけど、あれもまた、同じSFでも『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985年)なんかとはまったく違うわけで、ああ、こういう映画があるのかと、子どもながらに今で言う〈アート系〉の映画にどんどん入り込んでいった気がします」

「それと、これは今思うば、なんですけど、『時計じかけのオレンジ』には倫理観を揺さぶられるようなところがあった。つまり勧善懲悪じゃない、正しいことが正しいこととして収まらないという。アレックス(主人公=マルコム・マクダウェルの役名)はとんでもないヤツなんだけど、なぜかカッコイイ。同時期に並行して、60年代後半から70年代のアメリカン・ニューシネマも観てるんです。ジョン・シュレシンジャーの『真夜中のカーボーイ』(1969年)とか、デニス・ホッパーの『イージー・ライダー』(1969年)とか、ジェリー・シャッツバーグの『スケアクロウ』(1973年)とか。そこで描かれているのは、正しい者が常に勝つわけではないし、主人公であってもみじめに死んでいく。つまりどうも世の中ってヤツには、「善い/悪い」では判別出来ないような価値観があるらしいと思い始める。世界は不条理で、一筋縄ではいかなくて、始末の悪い理不尽なものなのだ、みたいなことは、無意識のうちにあの頃の映画から学んだような気がしますね」

そんな佐野少年は、当然のように「将来は映画監督になりたい」という夢を抱く。

「家にホームビデオがあったんです。まだ家庭用のカメラが珍しい頃ですね。オーディオもそうですけど、父親が機械物が好きで、バブル景気で銀行員も給料が良かったんじゃないでしょうか、家族旅行なんかを収めるためにずいぶん高価だったと思うけど買っていて。担ぐと肩が痛くなるようなデカイのです。友達が遊びに来るとそれを使って『映画撮ろう!』なんてやってました。小学校4、5年の頃です。シナリオというほどではないですけど、筋立てを考えて、友達に『キミはこういう役ね』なんて言って。だからその頃から、おぼろげでしょうけど、将来は映画を作る人になれたらなあと考えていたようです」

女の子ばかりの中で男はたった一人、そんな演劇部で「表現する面白さ」を知ったような気がする

「同じ頃、横浜に引っ越すんです。それで地元の市立中学に入学して。もしも「映画部」というものがあればそれに入ってたと思うんですけど、中学にはそんな部活はないですから、演劇部に入るんです。それが、僕にはとても大きかった。演劇部なんてどこもそうだと思うんですけど女の子ばっかりなんですよ、相米慎二の『台風クラブ』(1985年)みたいに。僕が入ったときも案の定、男子は僕ひとりで。何年振りかの男子部員だったそうです。ただ、僕にとってはそれが逆にとても居心地がよかった。先ほどインドア派の子どもだったと言いましたけど、要は男の子の『サッカーやろうぜ!』みたいなノリに付いていけなかったんですね。だから考えてみると、もっと小さな頃は女の子とばかり遊んでいた。ロボットのプラモデルよりぬいぐるみのほうが好きだったし、男の子が熱狂するような筋肉アクションなんかも苦手でした。なので演劇部で男ひとり、周り全員女の子というのはまったく違和感がなくて、むしろすごく自分が落ち着いたというか。普通、男の子って中学くらいになると色気づいたり、自意識が芽ばえて色んなものに反発したりするんだろうけど、僕はなぜかそういうことがまったくなくて。母親にも『あなたは反抗期がなかった』と言われるくらいで。そういう少々変わった少年だったから、むしろ周囲が女の子ばかりという環境の中で、自分のやりたいことを伸び伸びと実現出来たんじゃないでしょうか」

中学高校の演劇部には、大抵の場合、学生向けの戯曲本「中学高校演劇シナリオ集」的なものがあるという。そしてどこの学校もその中から作品を選んで稽古をして、地域のコンクールなどに出場する。しかし、何しろ「名作」と呼ばれ長年上演され続けているものなので内容的には古めかしさを否めない。

「言い回しが古風過ぎるんですね。同世代の少年少女の話なのに、僕らからすると『こんな話し方しないよね』ということになる。だったら自分たちに引き寄せて変えちゃおうということになって。今思うと著作権的に問題があるかもしれませんが(笑)、シナリオをいじって言い回しを変えて、台本読み(ホンよみ)、立ち稽古と続けていくと、登場人物がまったく違ったキャラクターになってしまったりする。そうするとどんどん面白くなるんです」

やがて「まったくオリジナルの劇を作ってみよう」ということになって、「書いてみたい」という希望者が台本を持ち寄り、見せ合って意見を交換し作り上げていった。そうなると彼らの中には「もっと色んな人に見せる機会を作りたい」という欲求が生まれ、ポスターを作って校内に貼り、放課後の視聴覚室で上演もするようになる。

「そうするとやはり反響があるんです。コンクールだとどこの学校もシナリオ集にあるお芝居を型通りにやるので、すごくお行儀がいい感じなんですね。ところが観る人、中学生が喜びそうなネタを入れたりすると、まあ当然ですがウケるわけです。例えば当時は『古畑任三郎』が人気だったから、推理物のオリジナルの芝居で、田村正和さんのモノマネで『犯人はあなたですね』なんてやったりして、今から考えるとたわいもないことなんですが(笑)。でも、「そうか、観る人というのはこういうことをすると喜んでくれるのか」ということが分かると、それまでは割と内弁慶な子どもで、あまり自己主張もしないような少年だったんですが、人を笑わせるのは面白いんだなという、大げさかもしれないけれど、誰かに向かって何かを表現する、そのきっかけにはなった気がするんですね」

一方で本を読み、映画を観まくるという生活も続いていた。

「小学生の頃は推理小説ですね。コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』シリーズは夢中になって、もちろんジュブナイルですけど図書室で全巻読んだ記憶があります。その流れでモーリス・ルブランの『怪盗紳士ルパン』とか。中学の時は図書委員でもあったんです。それで先生に横溝正史の『金田一耕助』ものを入れてほしいとお願いした。それも、やはりテレビで観た映画の影響です。確かお正月に『犬神家の一族』(1976年)を放映していて。市川崑監督、石坂浩二主演の金田一シリーズは他にも『悪魔の手毬唄』(1977年)とか『獄門島』(1977年)とか全部テレビで観ました。僕らの世代って、その辺り、70年代前後の日本映画はテレビでかなり観られたんです。他にも、刑事ドラマの延長線上で、いわゆる松田優作のセントラルアーツ(東映セントラルフィルム製作部門)物ですよね、『最も危険な遊戯』(1978年)とか『野獣死すべし』(1980年)とか、子どもにはちょっとエッチなシーンがあったりしつつ(笑)」

なるほど。それで、冒頭に書いたちょうど親子ほど歳の離れた佐野さんと僕の映画体験に、不思議と共通点がある意味が分かった。これは音楽でも同様で、1980年代後半にCD(コンパクト・ディスク)が登場し、旧作がどんどんデジタル化され再発された。彼らの世代はザ・ビートルズもザ・ローリング・ストーンズも、はっぴいえんどもサディスティック・ミカ・バンドもシュガー・ベイブも、すべて新譜と並列の感覚で聴いている。

佐野さんは言う。「そうなんです。時々上の世代の方からは『そんなものは本当に映画を観たことにはならない』なんて言われてしまうこともあるんですけど、僕らの頃には既に、名画座というものがポツポツと潰れて消滅し始めていた。なのでテレビが名画座代わりなんですね。逆に言うと映画を観に行くということが、特別なことになってしまっていた。もう、どの街にも小さな映画館があるという時代ではなかったんです。料金も上がってきていたので、映画と言えば親に銀座辺りへ連れていかれ、ついでに食事をして買い物もして、という感じなんです。なのでテレビで映画を身近に感じられたのは良かった。そうでなければ、とてもそんな数は観られなかったと思う。プラス、レンタルビデオも普及していたので、合わせ技ですよね」

「ビデオデッキは、物心付いた頃にはありました。まだベータの頃ですよね。その後、小学生のときにVHSのデッキが導入されて、そこから猛烈な勢いでエアチェックが始まった。ただ、当時は生テープがまだ高かったんです。それで僕が、テレビでやってる映画を異常に録画するので(笑)、親がテープ代がかかり過ぎると思ったのか、こんなに映画ばかり観てたら勉強しなくなると思ったのか、『録る映画は週に2本までにしなさい』と言われたんですね。そこで、我が家は当時小学館から出てた『TeLePAL (テレパル)』という雑誌を家族で購読してたんですが、それをもう、目を皿のようにして見て赤ペンで線を引いて、『今週はこれとこれを録る!』なんてことをしてましたね」

このテレビの映画劇場とテレビ雑誌の体験が、後に佐野さんを映画ライター、編集者へと導いていくのだが、それは少し後回しにして、中学時代の演劇部の話に戻ろう。前述したように台詞を現代的に変え、同世代にウケる要素を入れることに喜びを覚えた彼らはますます芝居に没頭していき、佐野少年が中学2年の終わり、地域のコンクールで大賞を受賞するに至る。

「だいたいどこの地方でも演劇には強豪校というのがあって、顧問の先生がすごく熱心だったりして、ブラスバンドなんかと一緒ですよね、毎回優勝するのは決まってるんです。僕の中学は賞なんてまったく無縁だったので、どうせ取れるわけないよねって言い合ってたんですが、それが取れたんで、みんな泣いて喜んで。その時だけですよね、青春を謳歌するみたいなこととはまったく無縁でしたけど。あの時だけは達成感がありましたね」

映画以外のことはやりたくなかったから、日本映画学校へ進もうと決めた

ところが──、

「それがあったせいか、高校に入ったら出がらしのようになってしまって。演劇部がなかったということもあるんですが。横浜市内にある私立の高校なんですけど、英検とか簿記検定とかそういう資格をたくさん取らせる高校で。学校のムードも何となく固くて、他に入りたい部活もないし、だから、授業終わったら早々に横浜の街に繰り出して、映画を観たり書店を散策したりという。友達という友達も出来ず終いでしたね」

ただそういった高校生活が、映画の道に進みたいという気持ちをさらに強くした。

「もう高校2年の時点で、日本映画学校へ進もうと決めてました。だから3年になってクラスの誰よりも早く進路が決まった。ええ、僕の頃はまだ専門学校(2011年に日本映画大学として4年制大学となる)です。先生からは『大学でいろいろ学んだら?』とも言われましたが、僕の気持ちとしては、映画以外のことはやりたくなかった」


こうして佐野亨さんは18歳で日本映画学校に入学する。

同校は当時3年制の専門学校。1年生では「映画史」や「映画理論」などを学びつつ、カメラや照明機材など、撮影実技も学ぶ。夏休み期間が終わったところで、全員(カメラマンや音声マンなど、技術者志望も同様)に200枚のシナリオを執筆し提出することが義務付けられている。これは創設者、今村昌平氏の校長時代からの伝統だそうだ。そして1年生終了前に、グループで1本の映画制作実習がある。

ただしこの段階で、佐野青年の将来への志望は少しずつ変わり始める。


「入学当時は『映画監督になりたい』『自分で撮りたい』という気持ちしかなかったと思うんですね。ただ、実習とかをやっていくうちに元々の内弁慶さが出て来たというか、ちょっと違うのかなあと考え始めるんです。というのは、映画学校に入って来るくらいだから、大抵の人間が実習では『監督をやりたい』『俺にやらせろ』という我の強さが出るんですね。そういうのを見ていると僕は逆に引いてしまって(笑)。結局1年の実習ではスクリプター(記録係)をやるんですが、すると共同作業というもの自体の難しさみたいなものにも突き当たってしまった。監督というのはやはり、強いリーダーシップを取ってスタッフを動かしていかなければならないわけで、僕にはそんなふうに、他の人の強い自己主張を説得したり時にはねじ伏せたりしつつ、自分の世界を確立していくなんて無理なんじゃないかと、そう思うようになるんですね」

「一方で、シナリオを書くのはとても面白かったんです。また、佐藤忠男先生に「映画史」を、映画評論家の西村雄一郎さんからは映画演出の技術的な授業を受けました。映画のハイライトシーンなどを上映して、こういう心理を表現するときにはこういう演出の仕方をするんだよ、という講義です。座学嫌いの周りの学生は退屈そうにしてたけど、僕にとっては面白いし勉強になるしで、毎回本当に楽しみだったんです。そこで少し話は戻るんですが──」と、佐野さんは回想する。

「子どもの頃から『日曜洋画劇場(NETテレビ→テレビ朝日系列)』の、淀川長治さんの解説が好きだったんです。それで本屋さんに行くと淀川さんの書かれた本が売っていたので、親に頼んで買ってもらったり、自分で小遣いを貯めて買うようになりました。そうするとより映画史的な知識とか、専門的な知識とかが増えて来て、ますます映画を観るのが面白くなるんですね。また書店では当然、淀川さんの本の近くには他の映画本も置いてありますから、ほかにも、映画評論家と呼ばれる人がたくさんいることを知って、いろいろと読むようになるんです」

映画批評で映画の面白さを教わってるから、僕の中では映画と映画批評は同じ価値がある

インタビュー当日、佐野さんは「話のきっかけになればと思って」と、川本三郎氏の映画エッセイ集『朝日のようにさわやかに 映画ランダム・ノート』 (ちくま文庫)を持参してきてくれていた。元々は筑摩書房より1977年に刊行されたものだ。正統派の作品ではなくむしろB級、C級のアクション映画やヤクザ映画、女優も東映の川村真樹やひし美ゆり子、日活の芹明香や谷ナオミなど、「日陰のオンナ」を演じる女優たちにスポットを当てた、まさに70年代的「気分」に溢れたカルト的名作である。彼は中学生の頃にはこの本を既に読んでいたという。そして現在に至るまで、ことあるごとに読み返す座右の書だそうだ。

「でも、中学生で川本三郎さんというのは何とも早熟だよね」と僕は言ってみる。

「そうかもしれないですね。ただ、この本の中に「負け犬たちへのバラード」という章があるんですけど、アメリカン・ニューシネマを初め、川本さんが同時代に伴走してきたような映画には、常に負けていく人たちがいる。体制の中でそれに反抗するんだけれど、抗い切れずに結局は敗れてしまったり、犠牲になってしまう人がいて、それに対する共感が今に至るまで、川本さんには一貫してあると思うんです。僕もちょうど思春期ですから、そういう感情に共感したというか」


「最初に読んだのはこの『朝日のように〜』ではなくて、雑誌で川本さんの短いコラムか何かを読んだんだと思います。というのは先ほど小学生の頃に親が買ってくれていたテレビ情報誌『TeLePAL (テレパル)』を読んでいたと言いましたけど、その中に映画紹介のページがあったんです。何人かの映画ライター、評論家の方が分担して書くというスタイルだったんですけど、子ども心に特に好きだったのが増淵健さん(映画評論家)でした。というのも増淵さんが書くものだけ異常なほどに専門的だったんです。『スター・ウォーズ』の撮影はこの人で、特殊効果はこの人で、こういう来歴で、というようなことを決して多くない文章量の中で書かれるんですね。淀川長治さんの『日曜洋画劇場』の解説もそうですよね。決して長い時間じゃない。おそらく3分にも満たない尺の中で、淀川さんはこの映画の主演俳優はかつてこういう映画に出ていてとか、監督はかつてこういう作品を撮った人でという、映画史的知識を織り込んでおられた。それで僕の中で知らず知らずのうちに、俳優からスタッフワーク、カット割りにカメラワークといった、技術的なことまで知識が深まっていった気がするんです」

「知識が深まれば深まるほど、ますます映画を観るのが楽しくなりますよね?」と僕。

「ええ。そういう意味では、僕には映画と映画解説が同じレベルで入ってきてたんですよ。今、こうして映画の本を作るようになって、読者の反応とかを見るときに、「批評なんか必要ないよ」という意見が必ずあります。それってきっと、今に限らず古今東西言われていることかもしれないですね。『映画はそれぞれ個人の感じ方なんだから、人が書いたもの(映画批評)なんて読んでもしょうがない』という。また、そもそも批評なんて、人様が作ったものに対してあれこれ言ってるだけじゃないか、何も生み出してないじゃないか、という批判もありますよね。早川義夫さんに『批評家は何を生み出しているのでしょうか』という唄がありますけど──早川さんは僕が最も尊敬するミュージシャンですが──ただ僕は純粋に受け手であった子どもの頃から、映画批評で映画の面白さを教わってるから、まったく同じくらい価値のあるものとしてとらえているんですね」

「佐野さんの思う、そんな子どもの頃から感じた映画解説、映画批評の面白さって何でしょう?」

「これは以前、どこかに書いたこともあるんですが、知らず知らずのうちに人間観とか、価値観みたいなものを植え付けられていたところはあると思うんです。増淵健さんに代表されるように、専門的な知識を教わったということもありますけれど、川本三郎さんの〈負け犬に対する共感〉に象徴される世界観ですよね。正義は必ず勝つわけではないとか、悪には悪の論理があるとか、世の中にはスパッと倫理では割り切れない領域があるんだというのを、映画を観ながら、解説を聞き批評を読むことによって、啓蒙されていたというか。それはとても大きかったと思う。なので、少々大げさに聞こえるかもしれませんが、僕の場合、人格形成そのものだった気がするんです。だから今でも映画を語る言葉にはそういう力があるだろうと思っているので、おこがましいようだけど原稿を書いたり本を作ったりするときには、誰かにそういう影響を与える可能性があるんじゃないかと、その部分は大切にしたいなあとは思ってるんですが」

(後編へ続く)
ライターズ(Writers)〜「書く」ことを職業にした人々~ 第6回 佐野亨(映画ライター/編集者)後編


写真=川上 尚見
取材・文=東良 美季

#CULTURE

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