ライターズ(Writers)〜「書く」ことを職業にした人々~ 第5回 成田はじめ(放送作家/脚本家)中編

第5回のゲストは、ベテランの放送作家であり脚本家の成田はじめさんです。放送作家としては、ビートたけしさんがナビゲーターを務める『奇跡体験!アンビリバボー』(フジテレビ系列)、伝説のバンド発掘番組『イカすバンド天国』(TBS)、ホンジャマカ石塚英彦さんの「まいう〜」という流行語を産んだ『元祖!でぶや』(テレビ東京系列)等、多数の人気番組に関わり、また、脚本家としても堂本剛さん主演の『金田一少年の事件簿』(日本テレビ)、浅田次郎さん原作の『プリズンホテル』(テレビ朝日系列)、映画では『アキハバラ@DEEP』(東映)など、ドラマや舞台の脚本を数多く手がけられています。2014年より日大藝術学部放送学科「テレビ企画構成演習Ⅱ」講師。

アングラ劇団をやってる自分がテレビの仕事するなんて、悪魔に魂を売るようなもんだと思ってた

自ら主宰していた劇団を解散した成田はじめは、やがて仕事のフィールドをラジオからテレビへと移す。その際、ある人物に強い影響を受けることになる。1985年頃のことだ。
「この間言ったさだまさしさんの『ラジオまっぴるま』に、監修役みたいな形で入ってた年上の放送作家さんがいてさ、どういうわけかことある毎に『成田くん、奥山侊伸さんに会ってみないか』って言ってたんだよ。『面白い人だし、知り合いになっておいて絶対に損はないから』って」

奥山侊伸(1938年生まれ)。テレビ放映黎明期の昭和40年代初頭より、前田武彦や青島幸男に師事。『シャボン玉ホリデー』『巨泉・前武のゲバゲバ90分!!』『お笑い頭の体操』『クイズダービー』等々、伝説的なバラエティ番組を数多く手がけてきた大御所放送作家である。

「ただそれってまだ劇団やってた時だからさ、『奥山さんってテレビの有名な放送作家だろ』って。『俺はテレビやんないから関係ないよな』って思ってたから、やんわりと拒否してたんだよ。『まあそのうち』みたいな感じでね」

「テレビは敷居が高かったというか、メジャーな世界に抵抗感があったんだよ。俺はアングラ芝居の住人だから、みたいな。劇研時代あんなに先輩たちのアングラ体質が嫌だったくせに、自分もその世界に染まってたんだな。ラジオには反体制の匂いがあるだろ? 俺自身、高校時代は深夜放送を熱中して聴いてたしさ。だからラジオはいいけどテレビは敵だ、みたいに思い込んでた。劇団やってる人間がテレビの仕事するなんて、悪魔に魂を売るようなもんだ、みたいなさ(笑)。でも、考えてみたらもう劇団は解散したんだからさ、拒否する理由なんて何もないじゃん、むしろ色々やってもっと広い世界を知るべきじゃないかって思って、それで紹介するって言ってくれた先輩に、『すみません、あの話、まだ生きてます?』って」

奥山氏は元々大橋巨泉事務所に所属していたが、1984年に自ら放送作家集団の会社組織「DNP」を立ち上げ、代表を務めていた。所属していた作家は多い時で30名にも及び、その中には若き日の秋元康氏もいた。

「で、奥山さんの会社『DNP』に訪ねたんだよ。そうしたら開口一番『お前、生まれはどこだ』って聞かれて、『北海道です』って答えたら、『そうか、北海道のヤツは間違いない』って。『よし、いつでも来い』って言われて、『面倒見てやる』って。奥山さんは旭川出身で、北海道出身者が大好きらしいんだ。でもちょっと待てよって、別に会社に入れてくれなんてひと言も言ってないし。俺はラジオがやたら忙しかったしさ」

ただ、成田はじめはひと目会って、奥山侊伸氏に強く惹かれるものがあったという。

「その人柄もあるんだけど、奥山さんって、愛川欽也さんの『パックインミュージック』(TBSの深夜放送ラジオ)で、オフでしゃべってた人なんだよ。高校生の頃に聴いてて何となく覚えてて、その紹介してくれた先輩の作家に『あれが奥山さんだよ』って教えてもらってたんだ。ああ、あの人かと、愛川さんに〈ちび助サラミ〉ってアダ名で呼ばれてた。小柄で色黒だからそう呼ばれてたのか、ひょっとしたらチンチンのことを揶揄されてたのかもしれない」

愛川欽也さんの「パックインミュージック」、通称・キンキンパックは僕もよく聴いていた。水曜(火曜深夜)の第1部(深夜1時─3時)1971年─1975年。木曜(水曜深夜)に移って1975年─1978年。まさに我々の中学・高校時代、思春期ど真ん中である。キンキンこと愛川欽也さんは、ナッちゃんこと野沢那智さんと並んで憧れの人であり、信頼出来る兄貴分であった。〈ちび助サラミ〉とは、今でも売っている小分けにされたサラミのことで、調べてみるとやはり成田が言うように、奥山氏は愛川さんから「オチンチンが小さい」といつもからかわれていて、「ボクはミドルサイズです」と反論するのがお決まりになっていたらしい。

「もうひとつは奥山さんが青島幸男さんの二番弟子だったってことで、『シャボン玉ホリデー』を一緒にやってた河野洋さんが一番弟子で奥山さんが二番目。青島さんっていうのは、やっぱり俺たちの世代にとっては大きな存在じゃないか。つまり奥山さんの弟子になるということは、青島幸男の孫弟子になるということかってね。それでさ、最初の頃は『ラジオの方が忙しいんで、ご期待に添えないかもしれません』って言ってたんだけど、面白いものであんなに文化放送の中で超売れっ子みたいだったのが、ちょっとずつ仕事が減ってくるんだよな。まあ、2年くらいやってて飽きられてきたんだろうけど。人生ってのは流れがあるんだろうね、そのままラジオの仕事を忙しくしてたら、テレビに関わることもあまりなかったんだろうけどね。で、奥山さんからは後々『あんなに偉そうなヤツいなかったぞ』って何度も言われることになるんだけど、俺は『調べ物するの嫌いなんですよ』『大宅文庫行って来いとか、図書館で何か調べて来いとか、そういうのやりませんけど、いいですか』って言ってたらしいんだ。奥山さんはそれをやたら面白がって、コイツ、入れてやろうって言ってんのに条件出しやがってって。他の放送作家の人たちに、『こんな生意気でエラソーなヤツがいた』って言ってらしい」

「放送作家というのは、弟子入りすると普通はそういうところから始まるんだよ。師匠や先輩からアレ調べて来いコレ調べて来いと。でも奥山さんは、その辺りも男っぽいというか妙な人でさ、『おお、別にいいぞ』って。でも、本来はムチャクチャ厳しい人なんだよ。会社で何度『田舎に帰れ!』って別の若手に怒鳴ってるのを聞いたことか。『ボク、東京出身なんで田舎ないんです』とか言うと、『だったらどこでもいいから帰れ、バカヤロー!』みたいな、そんな会話が日常的に飛び交ってるわけ。でもなぜか俺にだけ過保護でさ、先輩や同僚には『何でお前だけ特別待遇なんだよ』って言われたな」

礼儀正しいけど仕事ができないヤツと、無礼だけど仕事のできるヤツ、どっちがいい?

「初めてのテレビが、始まったばっかりの『アッコにおまかせ!』(TBS系列 放送開始1985年)だった。奥山さんがメインの作家だったからまずは会議に連れてかれるわけだけど、周りは先輩ばっかりだし、ラジオに比べると会議に参加してる人数が圧倒的に多くて勝手が違うし、ほとんど何もしゃべれないんだよ。ただ弁当食うだけでさ(笑)。当時は景気が良かったから豪華な弁当が出るんだ。お重みたいなのが。奥山さんからは『コイツ、会議に連れてってやってもただ弁当食ってるだけだ』って、毎回事務所帰るたびに言われてさ。俺の当時のあだ名は〈弁当食い男〉だった。で、やる仕事と言えば、カメリハから和田アキ子さんが入って、段取りとかやるわけだ。それで『今日のゲストは西城秀樹さんで〜す』とか言うと、俺が秀樹さんの役で、台本持って出ていって受け答えをする。そのたびに和田アキ子さんから、『もっと面白い受け答えせえや』ってドツかれるという、おいしいんだかおいしくないんだかよくわからない役回り(笑)。毎週日曜日の朝に、今日こそ面白いこと言おうと思うんだけど、『オモロないわッ!』って和田アキ子さんにドツかれる。それを、何年やったかなあ」

このように、成田はじめのテレビ放送作家生活が始まる。この時点でも、彼はまだ25歳だった。

「俺が奥山さんに教わったのは、〈テレビ業界での生き方〉みたいなものだったと思う。例えば、『最近どうだ?』って聞かれて、『う〜ん、ちょっと行き詰まってるんですよねえ』って言うと、『そうか。だったら車買い換えろ』みたいなことを言うんだよ。これが大学の劇研時代だったら、先輩に『次の台本どうしたらいいかと思って』なんてひと言でも洩らそうもんなら、居酒屋に連れてかれて2時間、3時間と講釈が続く。ジャン・コクトーは創作についてこう言ってるとか、寺山(修司)の場合はこうだったとかさ。ところが奥山さんはひと言『車買い換えろ』、それだけ。車と言えばさ、テレビなんかやっちゃいけないというのともうひとつ、俺みたいなアングラの人間は車なんて絶対に乗っちゃいけないと思ってた。ところがそのDNPという会社に入ってみたら、全員がカーマニアなんだ。特に上の方の先輩たちはまさにプロフェッショナルとして高額なギャラを稼いでる人たちで、競うようにいい車に乗ってる。一生車の運転なんてしないって決めてたのに、二子玉川の教習所に通って、文化放送のディレクターからものすごい中古のいすゞジェミニを3万円で買ってさ。みんなで温泉行こうなんてことになると、まあスゴイんだよ、ポルシェだベンツだって高級外車が連なって走るわけだ。そうすると俺の中古いすゞジェミニ見て、『その車、さっき崖の下に落ちてたヤツだろ』とか言われてさ」

「俺もいい車乗らなきゃダメだよなあって思って、それで奥山さんに言われるまま、崖の下に落ちてたいすゞジェミニから、国産だけどちょっといい車に買い換えるわけだ。『こんなローン払っていけんのかなあ』ってビクビクしながらね。でもそうすると、実際びっくりするほど仕事が増えたりするんだよ。『テレビ局のプロデューサーやディレクターよりいい車に乗れ』とも言われたな。そこにはローン背負うことによって頑張るとか、敢えて自分を追い込むとか、色々意味はあるんだろうけど、俺にとっては明快だった。少なくとも飲み屋で3時間説教されるよりは気持ちよかったんだ。『テレビ局ってのは、若い頃に仕事が出来ないヤツほど出世する。だからなるべく仕事の出来ないヤツと仲良くしとけ』とも言われたな」

「DNPに入って間もない若僧の頃、奥山さんに紹介された制作会社で、ディレクターと大ゲンカをして帰って来ちゃったことがあったんだ。後から聞いたんだけど、その会社の社長から奥山さんにクレームが入ったらしい。『あの成田って若い子はそんなに偉いんですか? うちのチーフディレクターをバカ呼ばわりして帰って行ったそうじゃないですか』って。そうしたら奥山さんは『礼儀正しいけど仕事ができないヤツと、無礼だけど仕事のできるヤツとどっちがいいんですか?』って逆に聞き返したらしい。『成田は確かに態度がデカくて無礼なヤツだけど、アイツは仕事が出来るんだ』って。でもその時は、そんなこと言ってくれたなんて知らないからさ、呼び出されて、これはクビ言い渡されるなあって覚悟してたら、奥山さんが最初に言ったのは『お前、ソイツを殴ったのか?』だった。殴っていないから『殴ってません』って答えたら、『バカヤロー、そういう時には殴れ。殴っちゃえば取り返しがつかなくて面倒がない』って言われた。何だか分かんないけど感動した。そんな説教を予想していなかったから、涙どころか鼻水まで垂れそうになったな」

ホンジャマカとバカルディ、「お笑い第3世代」と「お笑い第4世代」の間で

そのように成田はじめがテレビの世界に入ったのは1980年代後半、ダウンタウンやウッチャンナンチャン等、いわゆる「お笑い第3世代」がゴールデンタイムの番組へと進出し、次に続く「お笑い第4世代」が現れようとしていた頃だった。

「コントの台本も、かなり書いたんだよね?」と僕は聞いた。

「書いたね。当時売れてた人のは、ほとんど書いたような気がするな」と答え、「元々はテレビの仕事を始めた頃にさ──」と、成田は話を続ける。

「渡辺プロダクション、今はワタナベエンターテインメントって名前が変わったけど、ナベプロがお笑いの部門を作ったんだ。それ以前にも島崎俊郎さんがいたヒップアップ(島崎俊郎、川上泰生、小林進の3人組)が所属してたわけだけど、もっと若手を発掘していこうということで、言わば先行投資だな。木曜日にネタ見せやってたから、『BIG THURSDAY』(ビッグサーズデー)という名前だった。で、ギャラはほとんど出せないんだけど、若い作家でやってくれるヤツいないかって言われてさ、そこの座付き作家みたいなことを、半分ボランティアでやることになるんだ。ネタ見せに立ち会ったり、コント台本を書いたり。3カ月に1度くらい渋谷の109でコントライブをやるんだけど、その時だけギャラをもらえるという約束でね」

『BIG THURSDAY』から最初に登場したのが中山秀征と、現在は小説家として活躍する松野大介のコンビABブラザーズであり、後にホンジャマカを結成する石塚英彦は初期からのメンバー。恵俊彰は途中からオーディションで加入する。

「ホンジャマカは最初、10人くらいのお笑い集団だったと聞いたことがあるけど?」

「うん、俺が関わってたのはまさにその頃だよ。彼ら若手十数名は『ちょっとお洒落なお笑いライブやりたい』という希望を持っていて、俺が作家として付くことになった。そのとき、〈BIG THURSDAY〉って名前はダサイよねってヤツらが言い出して、お笑いの言葉でいうと『ベタ過ぎる』と。何しろ映画の『ビッグ・ウェンズデー』から取ってきたネーミングだからさ、カッコ良すぎてダサイと。そこで新しいのを付けようって画策してたんだけど、マネージャーに察知されて『ダメだ!」と強く言われて。その時俺が『まるっきり変えるのはダメかもしれないけど、BIG THURSDAYにワンフレーズをプラスするのはいいんじゃないの』と言ってさ。それで皆で考えるんだけど、十何人いるからなかなか決まらない。マックとかミスドとかを夜中までハシゴして、だんだん帰りたくなって来た頃、トイレに行ったんだ。そうしたら何の脈略もなく『ホンジャマカのホンジャのホイ〜』っていう早野凡平のフレーズが浮かんだんだ」

早野凡平は1970年代に活躍したボードビリアン。「ホンジャマカの〜」という唄を場つなぎとして口ずさみながら、被っている帽子を「ナポレオン」「カウボーイ」「ローマ法王」などに変えていく芸で一世を風靡した。

「それでトイレから出て、『なあ、ホンジャマカってどうだ?』って言ったら、それまでバラバラでまったく決まらなかったのが、全員が『それだ!』って言ってさ。『BIG THURSDAY ホンジャマカ VOL.1』というライブを、インクスティック芝浦ファクトリーでやることになるんだ(1988年6月4日)。その後、石塚と恵が改めてコンビを組む時に、『あの名前、使っていいですか』ということでね、2人がホンジャマカになった」

「元々つかこうへいや東京乾電池が好きだった成田としては、そういう仕事はやっぱり面白かったの?」

「面白かったねえ。学生時代は無理やりアングラ演劇をやってたようなところがあっただろ。笑劇とか軽演劇ということを、言い出すのすら恥ずかしい土壌だったからさ。思想性や哲学がないものは恥ずかしいと、先輩たちにずっと言われてきたから。でもそういうのはまったくナシで、とにかく客を笑わせればいい。コレって実は俺がずっとやりたかったことじゃないかってね。もうひとつ、そういう売れる前の芸人さんたちと飲みに行ったり、一緒にネタ作ったりするのが楽しかったよな。今思い出すと異様に盛り上がってた。渋谷の街で、せーので女の子をナンパしに行って、いちばんカワイイ子を連れて来たヤツが偉いみたいな遊びをよくしてたね。本来は学生時代にやるようなバカを、20代後半になって芸人さんたちと一緒にやって過ごしたというかね」

「だからしばらくしてフジテレビで『大石恵三』というホンジャマカとバカルディ(現:さまぁ〜ず)のコント番組をやることになるんだけど、それなんかはかなり気合いを入れて取り組んだ。ホンジャマカとはそういう縁があったし、バカルディともその頃にはかなり仲良くなってたからね。元々同じ2組で深夜90分枠で『ホンとにバカだね』という番組が月に1回、半年間あってさ、そこから関わっていて、好評だからと日曜のプライムタイムになったんだな」

『大石恵三』は1993年4月4日より、毎週日曜22時30分より放映されていたフジテレビ製作のコントバラエティ番組。タイトルは「大」→大竹一樹、「石」→石塚英彦、「恵」→恵俊彰、「三」→三村勝和(現:三村マサカズ)と、中心メンバー4人の名を1文字ずつ取って合体したものである。

「バカルディはね、日テレの『EXテレビ』(深夜バラエティの元祖『11PM』の後番組、1990年─1994年放映)でよく(若手お笑い芸人紹介)みたいな特集をやってて、俺がお笑いに詳しいってことでオーディションから選抜までを任されてたんだ。その中で『バカルディは群を抜いてる』と感心してた。ただ、その頃はほとんどコミュニケーションはなくて。いつだったか深夜のドラマバラエティみたいな番組で、突然プロデューサーから『スキー場のホテルとタイアップが取れたから、とりあえず現場に来て!』と呼び出されて、その場で台本を書くことになったんだ。ロケバスでホテルまで連れて行かれて、ホテル側から『どこを映してほしい』とかいうタイアップ条件を聞いてさ、夜、部屋で台本を書いていたらいつの間にか寝ちゃったんだ。ふと目が覚めたらバカルディの2人が覗き込んでてさ、『成田さん、爆睡してんのに寝言で「眠いよー、眠いよー」って言ってましたよ』って。三村があの感じで『オレ、寝てるのに眠いって寝言言う人を初めて見ましたよ』って言って、大竹は『この設定、コントに使っていいですか』って。俺は寝ぼけながら『う〜ん、確かにいいネタだな』なんて思って、そこから一気に仲良くなった気がする」

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座付きコント作家になって、後の人気者たち、その無名時代を共に過ごした

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