ライターズ(Writers)〜「書く」ことを職業にした人々~ 第5回 成田はじめ(放送作家/脚本家)前編

WEBマガジンにおいて最も重要と言える「文章」を生み出すライター。彼らが書いた文章は我々の目に触れ心を動かすが、そのプロセスを知る機会は少ない。しかし、彼らにもそれぞれの人生があり、数多の夢や挫折を経て培われたプロフェッショナリズムが存在する。
そこで、ライターによるライターへのインタビューを敢行。インタビュアーは東良美季氏。AV監督、音楽PVディレクター、グラフィック・デザイナーなど様々な職を経験した彼が引き出すライターたちの魅力に触れてもらいたい。



第5回のゲストは、ベテランの放送作家であり脚本家の成田はじめさんです。放送作家としては、ビートたけしさんがナビゲーターを務める『奇跡体験!アンビリバボー』(フジテレビ系列)、伝説のバンド発掘番組『イカすバンド天国』(TBS)、ホンジャマカ石塚英彦さんの「まいう〜」という流行語を産んだ『元祖!でぶや』(テレビ東京系列)等、多数の人気番組に関わり、また、脚本家としても堂本剛さん主演の『金田一少年の事件簿』(日本テレビ)、浅田次郎さん原作の『プリズンホテル』(テレビ朝日系列)、映画では『アキハバラ@DEEP』(東映)など、ドラマや舞台の脚本を数多く手がけられています。2014年より日大藝術学部放送学科「テレビ企画構成演習Ⅱ」講師。

僕らは國學院大學のキャンパスで出会った。成田はじめは18歳で、僕は19歳だった

成田はじめと出会ったのは、渋谷区東にある國學院大學のキャンパスだった。1978年のことで、成田は18歳、僕は19歳だった。彼は演劇研究会に所属していて、2年生から脚本と演出を手がけることになる。そこには後に『上海バンスキング』で知られるオンシアター自由劇場(主宰・串田和美)でプロの俳優になる冨岡弘や、劇団黒テント(主宰・佐藤信)に所属する田村義明、映画プロデューサーになる近藤亮一(『島田洋七の佐賀のがばいばあちゃん』他)もいた。成田は法学部で僕は文学部哲学科だったが、近藤が同じ哲学科であり、またそのクラスには演劇研究会の女優が2人いたこともあり、いつの間にか親しくなった。哲学科には現在声優として活躍している矢尾一樹(『機動戦士ガンダムZZ』『ONE PIECE』他)もいて、僕らはまったく勉強などせず、いつも渋谷の街を飲み歩いていたような気がする。我々の周りにはそのように、いつだって芝居や映画や、音楽があった。

この連載はその文章に魅力を感じ、ぜひ一度お会いしてみたかったという人にお願いすることもあれば、日頃親しくしてもらいつつ、いつか「どのようにして<「書く」職業にたどり着いたのか?>をお聞きしたいと思っていた人にもお話を伺っている。成田はじめの名前も、企画の段階から僕の頭の中には挙がっていた。それにしても長くこの仕事をしてきたが、40年来の友人にインタビューするというのは初めてだ。この先、もう一度あるかどうかも分からない。そして古くからの付き合いでありながら、やはり知らないことも多かった。2018年異常気象の夏。7月24日も34℃の猛暑の中、ハーフパンツにアロハシャツ、ニューバランスのスニーカーという大学時代よりもむしろ若々しいスタイルで現れた成田に、僕が最初に尋ねたのは「Wikipediaには北海道函館市出身って書いてあるけど、そうなの?」という質問だった。彼は冨岡、田村、近藤らと同じ國學院久我山高校出身で、実家も下北沢にあった。だからずっと東京生まれの東京育ちだと思い込んでいたのだ。インタビューはそこから始まった。

「そう、実は北海道人なんだ。東京には中学2年の時に来た。親の転勤でね。だから自分でも地方出身者という意識は薄い。むしろ北海道にいた頃のことを忘れてるくらいだな。親父の職業? ホクレン(北海道農業協同組合連合会)というところのサラリーマンだった。農協だね。北海道産のコーンとかアスパラガスとかの缶詰を見ると、必ず〈ホクレン〉と書いてあるよ。北海道ならどんな田舎町にも支店や支社がある。だから最初は北海道の中を転々とするんだ。函館から始まって斜里町という知床の近く。次はいちばん北の果ての稚内へ行って、小6でまた函館に戻った」

またもや、という気がした。第1回のゲスト・北尾トロさんのお父さんは全農(全国農業協同組合連合会)の職員で、第2回・梅原淳さんの父上は全酪連(全国酪農業協同組合連合会)だった。こうなってくると転勤族の団体職員の家庭に育った子どもは物書きになりやすいという、そんな傾向があるようにすら思えてくる。

「そして中2のときに東京に来るんだけどね、親父はずっと東京に転勤願いを出してたらしい。というのは俺が、小学校の頃まではちょっと勉強ができる子どもだったんだ。それで親父は、ひょっとすると我が子は東大に入れるかもしれないという野望を抱いたんだな。だから早く東京へ行って、都会でしっかり勉強させる環境を整えようと考えたらしい。ところが北海道と東京じゃ教科書も授業の進み具合も違い、何より環境が刺激的で 、まあ勉強なんてまったくしなくなった。それでどんどんバカになって、東大どころじゃない、大学だって危ないだろってレベルになったんだ」

「小学校の頃? 優等生ではないな。ただ、かなり小さい頃から本を読む子どもだった。なぜかというと、ものすごく身体が弱かったんだ。すぐに熱出して、肺炎とかにもなったし、しょっちゅう中耳炎とかにもなった。だからそういうインドア的読書傾向な少年だったんだな。ただ運動は決して嫌いじゃなくて、北海道だからスキーをやるわけだけど、ある時足を骨折して、それが悪化して膝が悪くなって、医者から『これはもう一生車椅子です』なんて宣言された。オフクロは青くなってそれこそ北海道中の病院廻って、唯一『治ります』って言った医者にすがってどうにか治ったなんてこともあった。入院したり、病院に通うとかがすごく多かったね」

そう言ってから、「意外だろ?」と笑った。確かにそうだ。成田はじめには学生時代からガタイのいい、少なくとも肉体的には健康な若者というイメージがあった。

「ところが年齢的にそうなのか、あるいは何か地軸的なものなのかは分からないけど、東京に出て来た途端、急に健康な子になった。いわゆる〈水が合った〉ということなのか、それともそういう成長期だったのか、あるいは両方なのかは分からないけど。それで、割と活発な少年になった気がするね」

つかこうへいの芝居『改訂版・出発(しゅっぱつ)』に出会い、大学入ったら演劇やろうと決めた

中学2年生の時、東京の東中野に移り住む。

「ホクレンは農協の団体だから、ちゃんとした社宅制度があるんだ。親父が東京事務所の中で管理職だったこともあったんだろうけど、一軒家があてがわれた。東京で最初に住んだのは、ものすごく古い、おそらく戦後すぐくらいに建てられただろう日本家屋だった。俺はその家が好きでね。古い家だから縁の下というものが床の下にずーっとあるわけだ。犬を飼っててさ、門も閉まるから放し飼いで。夜、寝てると下でガサゴソ音がして、『ジョン!』って名前呼ぶとワンって吠えたりする。だから犬にとってみたら天国みたいな家でさ、縁の下の、自分の好きなところを掘り返してエサやオモチャ隠したりして、一日中走り回ってたよ」

「ただ、東京で、古い家だから当然、あの黒いヤツが出る。そもそも北海道の人はゴキブリというものを知らないんだよ。北の大地にはいないからさ、免疫がない。それでオフクロは親父に毎日のように『ゴキブリが出ない家に引っ越したい』って言うんだ。古い家だからこそ出ると思い込んでるんだな。それで比較的新しい荻窪の家に引っ越すんだけど、でもまあ、やっぱり出るんだよ、東京なんだから(笑)。それはいいんだけど、今度は敷地ギリギリに建ってるような家でさ、庭がないんだな。そうすると犬が繋がれっぱなしで。それが可哀想でさ、今度は俺が『犬が好きに遊べる家に引っ越してくれ』って言って、それで、庭があって放し飼いにできる下北沢の家に移った。東良の言う俺の実家というのがそれだよ」

「それが高校に入った年だったかな。下北沢というのは立地がいいから、友達のたまり場になった。学校からも近いからさ(國學院久我山高校は下北沢と同じ井の頭線沿線にある)。今はもちろんダメだろうけど、俺たちの頃は高校生でも酒ガンガン飲んだじゃないか。だから下北沢で飲んで、酔いつぶれたヤツがウチに泊まるというシステムだよ。冨岡、覚えてるだろ? アイツが特に酒が弱くてさ。弱いのに酒好きだから飲んで、必ずツブれて俺の家に泊まってたよ」

「そうそう、冨岡と言えばさ」と成田は続ける。

「少し話は飛ぶけど、大学1年の時かなあ、『上海バンスキング』を──後に自由劇場の一大人気レパートリーになる芝居の初演──冨岡と2人で観に行ったんだよ(1979年1月─2月。於:六本木自由劇場)。それで帰りに飲みに行ってさ。冨岡がすごく感激していて、『こんな最高な芝居、初めて観た』って興奮気味に語るわけだ。でも俺は内心『そうかなあ』って思ってた。確かにいい芝居なんだけど、ちょっとストレート過ぎるんじゃないか、もう少しひねりがあった方が深みが出るんじゃないかみたいに感じたんだよ。それで『最高ってお前、それは言い過ぎなんじゃないの』なんて言ってるうちに喧嘩になってさ、『何だテメー、このやろう』みたいな、まだ18とか19だからさ、血気盛んだったんだろうな。そうそう、思い出した、場所は下北沢ロフト(現在もある老舗ライブハウス。昼間は喫茶店、夜中は酒場になる)だった。『表に出ろ』『おお、上等だ』とか言って、路上で揉み合って胸ぐら掴み合ってたら誰かにポンポンって肩叩かれてさ、『うるせえな』って振り向いたらおまわりさんが3人くらいいた。『通報があったから来た』って言われてさ、『お前ら、どうせ友達同士なんだろ』『友達なら仲良くやれ』って軽く説教されて、『ハイ、すみませんでした』って飲み直したら冨岡は案の定ツブれて、またウチに泊まった(笑)」

「冨岡は結局、あの時『最高だ』って言ってた『上海バンスキング』のことが忘れられなかったのか、大学4年の時から研究生になって、オンシアター自由劇場の劇団員になるんだ。それで、今からもう20年以上前になるかなあ、渋谷のシアターコクーンで最終公演、『上海バンスキング』はこれで打ち止めというのがあったんだよ(1994年7月─8月。於:Bunkamuraシアターコクーン)。観に行ったんだ、冨岡が『観に来てくれ、最後だからって』って言うからさ。そうしたら、大学1年で喧嘩になったあの夜から15年くらい経ってたけど、冨岡が『上海バンスキング』の舞台に立ってるんだよ。〈方さん〉っていう中国人の年寄りの役でさ。出番はそれほど多くないんだけど、映画版(1984年 監督:深作欣二)では三谷昇さんがやった結構重要な役だよ。いやあ、時間かかったけどココまで来たかって、ちょっと感動的だったな。下北ロフトで『表に出ろ!』って言ってからずいぶん時間はかかったけど、冨岡、初志を貫徹してジジイの役を手にしたかと(笑)」

「田村(義明)は中学から一緒なんだ。最初に引っ越した東中野の中野三中。それで近藤(亮一)と田村が久我山に入って高1のクラスが一緒で、そこで映画が好きでよく観に行ってる仲間みたいな感じになったんだな。当時はビデオなんてないからさ、日曜日にそれぞれ名画座の2本立て、3本立てをハシゴして回って、月曜日になると『どんな映画観た?』って意見を交換した。映画を年間100本観るってのがちょっとしたステイタスでね、とにかく名画座に通い詰めた時代だったな。冨岡とは高校3年でクラスが一緒になって、アイツとはまた妙な因縁でさ、ある日2人でつかこうへいの芝居を観に行ったんだ。俺たちが高3だから1978年かな? つかこうへいの絶頂期だよ。田中邦衛さんが客演した『改訂版・出発(しゅっぱつ)』(1978年1月。於:俳優座劇場)という芝居だった。それで俺も冨岡もえらく感動するわけだ。今思うと芝居の内容をどこまで理解してたか分からないけど、やたら興奮してさ、『大学入ったらさ、演劇やろうよ』って冨岡が言い出して、俺も『うん、やろう』って。それで翌朝から2人してマラソンを始めるんだ。芝居をやるにはまず体力だって思い込んでいた。俺が下北沢で冨岡が経堂に住んでいて、中間地点が豪徳寺だったかな。朝6時くらいから走り始めて、豪徳寺の合流地点で会って、そこで公園を何周かして、またお互いの家に帰る。まあ、1週間くらいしか続かなかったけどね(笑)」

「映画は当時だから、まずはアメリカン・ニューシネマだよな。中学生の時『アメリカン・グラフィティ』(1973年 監督:ジョージ・ルーカス)を観てショックを受けた。高校に入ってからはATG(日本アート・シアター・ギルド)系の映画も夢中で観た。黒木和雄監督の作品とかね。『龍馬暗殺』(1974年)、『祭りの準備』(1975年)。俺はとにかく原田芳雄さんが好きでさ(前掲両作に出演)。これは後に自分が演出をやるのにも関係してるかもしれないけど、子どもの頃からなぜか俳優というのが好きだったんだ。それも女優より男の役者。だから周りでアイドルとかに騒いでる同級生とかがいると、バカじゃねえかって思ってるようなヒネた少年だった。芳雄さんを始め、松田優作さん、山崎努さん、幸運にも今、NHK・BSプレミアム『あてなよる』という番組でご一緒させてもらってるけど、石橋蓮司さんとか、そういうアクの強い役者さんがとても好きだった」

大学の中でも最も古い学生会館と呼ばれる校舎。2階の窓からは「公安のスパイを警戒する」という名目で、革マルの活動家がいつも双眼鏡で覗いていた

「それで話はちょっと飛ぶけどさ、後に岸谷五朗という役者と一緒に組んで色々と仕事をすることになるんだけど、岸谷が『ブラザーズ』(フジテレビ系列「月9」枠 )というドラマで芳雄さんと共演した時期があって、ある日二人で飲んでたら、岸谷が突然『芳雄さんに会いたいだろう』って言い出して。俺が心酔してるって知ってるからさ。『そりゃ会いたいよ』って言ったら、『行こうか』『どこに?』『芳雄さん家』って。マジよかって思ってたら、岸谷のヤツ、すぐに電話して、『来ていいってさ』と言う。『岸谷、俺はお前と知り合って本当に良かったよ』って手を握りしめる勢いで(笑)。でも実はさ、こういう仕事してると色んな人に会うけど、本当に子どもの頃から好きだった人って、恐いんだよね、会うのが。イメージが違うこともあるからさ、性格悪い人だったりとか、嫌な一面を見ちゃったとか。だから、本当に好きな人に会うのって実は慎重になるんだな」

「芳雄さんの家に着くまでは内心、イメージ違ってたら嫌だなあなんて思ってたんだけど、でもまったくあのままだった。東北沢の一軒家に住んでて、古民家を壊すときに譲り受けたっていう、でっかい廃材の一枚板のテーブルがあってさ、掘りごたつみたいに床がくり抜いてあって、その端っこで飲んでるんだな。しかもバーボンでさ。紹介されるなり『まあ飲め』って注がれて。見たら、ミスタースリム吸ってるんだ。映画と一緒じゃんっ思って。でも、ミスタースリムって煙草は松田優作も吸ってたんだよ。それを言ったら、『俺が優作に教えたんだよ』って。『一本もらっていいですか』ってお願いして。吸わないよ、ポケットに入れて大切に持ち帰ったよ(笑)。聞きたかったこと色々聞いたんだけど、全部答えてくれたな。さっきも言ったけど『龍馬暗殺』『祭りの準備』って生涯忘れられない2本なんだけど、その次の『原子力戦争』(1978年 監督:黒木和雄)が失敗したのはなぜですかなんて失礼なことも聞いた。で、芳雄さんはその後、1990年の『浪人街』まで黒木監督と仕事しなくなるんだけど、それをずっと知りたかったんだ。そうしたら『人間ってのはな、いつまでも一緒に居られるもんじゃないんだよ』って言って、俺と岸谷をこう、指さしてさ、『お前らだって、いつまでもツルんでるとは限んねえぞ』って。まあ、確かにその通りになるんだけどね」

話は1978年に戻る。國學院久我山高校を卒業した成田はじめは、國學院大學に進学し、演劇を目指すことになる。

「冨岡と『大学入ったら演劇やろうな』と誓い合ったわけだけど、別に一緒にやろうと決めたわけじゃなかった。それぞれ演劇研究会なり劇団なりを探そうぜってことだった。近藤、田村に関しては、演劇をやりたいかすら知らなかったんだ。仲は良かったけどそういう話はしなかったから。で、大学の中庭にダーッとサークルの出店が出てさ、新入生の勧誘をやってただろ? あそこをキョロキョロして歩いてたら、すっごく綺麗な女の人がいてさ、東良も知ってるよな、Uさん。長い黒髪で、桃井かおりをちょっと幼くしたような美人でさ、そのUさんが俺にアンニュイな表情浮かべて、『ねえ、芝居やらない?』って言うワケよ。もう『これだ!』って思って(笑)。俺が求めていたのはコレだ。髪の長い、雰囲気のある美人の先輩の元で演劇がやりたかったんだって。ソッコーで『やります!』ってついて行った」

サークルの部室は、大学の中でも最も古い学生会館と呼ばれる校舎の中にあった。いわゆる「ゲバ字(新左翼が好んで使った書体)」で書かれた看板があり、2階の窓からは「公安のスパイを警戒する」という名目で、革マルの活動家が双眼鏡で覗いていた。

「そうだよ、あの汚ねえ学館(学生会館)に連れていかれてさ、大丈夫かなってちょっと不安になったけど、この美人について行くのが正解だろうと思って部室まで行ったら、冨岡と田村と近藤がいた。何でお前らもいるんだよって。後で聞いたら全員がUさんに勧誘されてついて来ちゃったんだよ」

実は僕も、おそらく成田や冨岡らが行った翌日くらいに、演劇研究会の部室を訪れている。僕の場合は中庭の出店で、同劇研の脚本家だったKさんと舞台監督のOさんという男性の先輩に「演劇に興味ないか」と声をかけられ説明を聞いていた。僕は特に芝居がやりたいという希望を持っていたわけではなかったのだが、その時、黒ずくめの服に身を包んだ黒髪の美人が通りかがり、Oさんに「あれ、ウチの女優さんだよ」と言われ、フラフラと部室までついて行ってしまったのだ。

40年経ってそのことを初めて話すと、成田は「何だよ、俺たち全員、美人局(つつもたせ)に引っかかってんじゃねえか」と笑った。

あれは2000年代に入ってからだと思う。とあるアンダーグラウンドな文化の研究家の方とメールのやりとりをしていたら、「東良さんは國學院のご出身ですよね。演劇研究会にいたUという女性をご存じないですか?」と尋ねられた。「私の高校の同級生で、全校男子のマドンナでした」とあった。それだけ、雰囲気のある綺麗な女性だったのだ。その後女優になったという話は聞かない。今、何をされているのだろう。

ともあれ、18歳の成田はじめは國學院大學の演劇研究会に入る。

「東良は観たことあるから分かると思うけど、國學院の劇研、特に俺たちの先輩までの代の芝居って、徹底的なアングラ演劇なんだよ。で、まず入ってすぐ、先輩が『よおし、今日は芝居観に行くぞ』って言って、紅テント、唐十郎の状況劇場に連れていかれるわけだ。そうするとさ、まず台詞は何言ってるか聞こえないし、テントの中は汚いし、石ころとかがゴロゴロしてるところにシート敷いて座らせるから、石がケツに食い込んで痛くて、もう芝居どころじゃないわけ。俺はつかこうへいを観て芝居をやろうって決めたわけだからさ、う〜ん、こういうのはどうなんだろうなあなんて思うわけだ。当時はまだ演劇論とかにちんぷんかんぷんだったしね。で、自分でも他の劇団を色々観に行くわけだけど、黒テント(当時の名称は「68/71黒色テント」主宰:佐藤信)なんかはもう少しストーリーがはっきりしてて、分かりやすいなあと思う。天井桟敷(主宰:寺山修司)は、ストーリーはよく分かんないんだけど、とにかく舞台の絵面が美しいんだ。それに圧倒される。当時、夢の遊眠社(主宰:野田秀樹)がものすごい勢いで、観に行くとこれが話もすごく分かりやすくて笑いの要素もたくさんある。さらにジャンジャン(渋谷公園通りにあった小劇場)でやってた東京乾電池(主宰:柄本明)なんていうのは、最初から最後まで、もうとにかく理屈抜きで笑えるわけだ。それで、俺はこっちの方面が好きだなあと思うんだな」

「ところがウチの劇研というのは数年前に『少女仮面』(唐十郎の代表作、岸田國士戯曲賞)を上演したとき唐さんご本人が観に来て、そこで主演していた先輩の役者を唐さんが気に入ってスカウトしたなんてことがあってね。根津甚八さんが状況劇場を退団した後、その先輩が根津さんの後釜みたいな役に抜擢されたりして、後に続く者たちはもう、唐十郎の世界以外は演劇じゃないみたいな感じで盛り上がってるわけだよ。そんな中で、『ボクは東京乾電池みたいな芝居好きです』なんて口が裂けても言えないわけだ。そんなことを飲みの席とかで口走った日にゃ、『自己批判しろ!』って徹底的に説教されるのは眼に見えてるからさ。さてどうしたものかと考えるわけだ」

「これは完全に余談なんだけど。そのずっと後に、TBSラジオで『大鶴義丹のパックインミュージック』っていう深夜番組の構成を担当するんだ。番組が1年続いて打ち上げをやることになるんだけど、その酒の席に李麗仙さんがいらっしゃったわけ。もちろん大鶴義丹の母親として、息子がお世話になっているスタッフさんに挨拶も兼ねてという感じでね。(おいおい、李麗仙が目の前でビール飲んでるよ)って内心ドキドキしながら、普通の会話をしてるんだけど、李さん、とても丁寧な口調で物腰も柔らかなわけね。なんたってこっちは〈息子がお世話になってるスタッフさん〉だから(笑)。でも、俺はだんだん物足りなくなってきてさ、(こんなの本当の李麗仙じゃない!)って思い始めるわけだ。お互い酔いが回ってきたちょうど良いタイミングで、李さんに大学時代のことを話すとね、それまで温和な母の表情だったのが急に女優の顔になって、『あら、アンタ、國學院の劇研の出なの?』と急に上から目線になったんだ。そこからはかつての劇団員だった先輩の話になり、『あの子には役者としての華が足りなかった』とか、他の役者さんたちへのダメ出しが始まったりしてね、〈演劇界の女王・李麗仙〉の登場になるんだな。俺のことも最初は『成田さん』だったのが、『アンタ』になり、『お前』になって、最後は『成田、お前はなんにも分かってない!』と怒られて(笑)、大鶴義丹がその光景を見て目を丸くしてた。嬉しかったねぇ、ホンモノの李麗仙さんと出会った気がして。社交辞令に終始する人とひとときを過ごしてもしょうがないじゃないか。なんというか、こういうことを味わいたくて、俺はこの仕事をしてるのかもしれない、と本気で思ったよ」


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劇団では当然食ってはいけないので、雑誌のフリーライターで生活費を稼ごうと考えた

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