途切れた歴史を再び接続させること—— 韓国ヒップホップ界のレジェンド・ DJソウルスケープが自らに課す「使命」

新宿・歌舞伎町。東京有数の繁華街であるこの町のとあるクラブで、ある韓国人DJがプレイを繰り広げていた。フロアは超満員、あまりの熱気で天井から水滴が滴り落ちるほどだ。韓国で最も有名なヒップホップDJである彼のレコードバッグの中には、ヒップホップのレコードは一枚も入っていない。すべてが60年代から80年代にかけて発売された韓国音楽のレコードで、その中には60年代のガレージ・ロックもあれば、70年代のサイケデリックな歌謡曲、ディープなジャズ、80年代のディスコやソウルもある。韓国ではほとんどのDJが見向きもしないようなレコードばかりだが、彼は時折スクラッチを織り交ぜながら、それらをまるで魔法のようにミックスしていく。この日のために東海地区や関西からやってきた熱狂的なファンもいたそうで、彼がミックスするたびに満員のフロアから歓声が上がる。

DJは社会を変えることができるのか

彼の名はDJソウルスケープ。韓国におけるヒップホップ創世記とも言える90年代末から活動を始めた彼は、近年大きな盛り上がりを見せる韓国ヒップホップ界のオリジネイターだ。韓国初のヒップホップ・クルー、マスタープランの中核を務めたほか、2000年には韓国初のDJアルバム『180g Beats』を発表。草木一本生えぬ荒野を耕し、少しずつヒップホップの大地を作り上げてきた先駆者の一人である。

そんな彼は、2000年代半ばから突如韓国の歌謡曲を使ったDJプレイを始めた。そこには韓国音楽界の極めて特殊な成り立ちに対するソウルスケープのとある問題意識と危機感があり、シーンに対するある使命感があった。
(彼のミックスはSoundCloudページでも聴くことができる )

DJカルチャーは社会の中で何を生み出すことができるのか。もっと言えば、DJは社会をどのように変えることができるのか。ソウルスケープの試みは、DJの存在そのもののあり方を問うものでもあるだろう。

歌舞伎町の夜から遡ること数時間前、ソウルスケープと会った。場所はどこにでもあるような古びた喫茶店。「いい店ですね。ソウルには、こういう昔ながらの喫茶店がほとんどなくなってしまったんですよ」――店に入った瞬間、ソウルスケープはそう口にした。

確かにソウルと東京はまるで兄弟のように瓜二つであると同時に、時には驚くほど違う表情を見せる。先述したようにソウルスケープが活動を開始したのは90年代後半のことだったが、彼によると、ソウルにはそれまで現在のようなクラブが存在しなかったという。同じころの東京には無数のクラブがあり、たとえ十代だろうと手軽にナイトクラビングを楽しめた時代だ。

韓国の音楽界は常に「断絶」してきた

DJソウルスケープ ソウルの場合、それまでのDJは水商売の世界のもので、特定のディスコに専属のDJがつく形態だったんです。クラブというよりナイトクラブですね。(外国人も数多く集まるソウルの繁華街)イテウォンにそうしたナイトクラブができはじめたのが80年代初頭。それまではどこかで音楽を聴こうと思うと、お茶を飲みながらレコードを聴くような音楽タバン(喫茶)か、ホテルの地下にあるゴー・ゴー・クラブに行くしかなかった。チョー・ヨンピルさんがライブをやっていた(韓国南部の都市)釜山のフェニックス・ホテルには常になんらかのバンドがライブをやっていて、日本の音楽関係者がよくスカウトに来ていたみたいですね。

80年代に活動していたナイトクラブ世代のDJと、90年代後半以降のソウルスケープ世代の交流はまったくないという。前者はあくまでも水商売の世界、後者はクラブ・シーンの住人というコミュニティの違いはあるとはいえ、あるカルチャーが1本の線で結び付くことなく、世代間の断絶が生まれてしまうのは、クラブ界隈やインディー・シーンを含む韓国音楽界共通の課題でもある。そうした断絶に対する問題意識はのちに彼をとある活動へと向かわせることになるのだが、その前にソウルスケープがDJを始めた経緯について話してもらおう。

DJソウルスケープ きっかけはグラミー賞の受賞式で見たハービー・ハンコックの“Rockit”ですね。実際にDJを始めたのは90年代中頃。当時ソウルでもヒップホップがすごく流行っていて、周りの友人たちもダンスを始めたり、そういう時期だったんです。ウータン・クランやスヌープのCDも輸入盤でどんどん入ってきて、アメリカのものがリアルタイムで聴ける環境になってきたんですよ。ダンサーたちは日本でビデオを購入して、それを見ながら研究していました。

当時のソウルスケープはまだ十代後半。同世代の少年たちが集い、その技を磨いていたのが「マスタープラン」というクラブだった。ソウルスケープはそこを「韓国においてヒップホップが始まった場所」と定義している。マスタープランに集うMC、DJたちは次第に連携を深め、「マスタープラン」を名乗るクルーとして活動を開始。ソウルスケープはその中核を担うDJ/ビートメイカーとして精力的な活動を展開していくこととなる。


DJソウルスケープ それまでは、ラッパーもDJもみんな自分の家でひたすら練習していたんですよ。それがマスタープランでヒップホップのイベントをやってるという噂を嗅ぎつけて、徐々に集まりだしたんです。ターンテーブルが置いてあるクラブって当時もほとんどなかったんですけど、マスタープランにはあったんですね。僕もよく練習していました。

当時から『マスタープランとしてアンダーグラウンドから上がっていこう』という意識ははっきりとありましたよ。それと同時に、『アンダーグラウンドで新しい人脈を育てていこう』とも考えていましたね。今のヒップホップ・シーンは自分が始めたころと比べると確かにだいぶ大きくなりましたけど、当時の努力が実って現在の盛り上がりがあるかというと、必ずしもそういうわけじゃないと思う。今のシーンで活躍してる連中がマスタープランのことを知っているかというと、そんなに知らないと思うんですよ。ここ数年の新しいカルチャーとして受け入れている人が多いと思いますね。

ヒップホップの感覚で「ルーツ」を再構成する

そこまで話すと、ソウルスケープは目の前のコーヒーに口を付け、僕に英語で話しかけた。今回のインタビューそのものは韓国語で行われたが、彼はほとんどネイティブ・レベルの英語を話すこともできる。彼はその英語力を兵役に就いた際、米軍兵と会話を重ねる中で磨いたというが、米軍兵はソウルスケープにそれ以上のものをもたらした。

DJソウルスケープ 米軍の基地内でやってたアメリカ人DJが国に帰る時、レコードを処分することがあったんですね。90年代後半、イテウォンのレコード屋では米軍経由で入ってきたそういう12インチのレコードを安く手に入れることができたんですよ。それと、南部出身の米軍兵にはヒップホップやニューオーリンズのファンクなどいろんなものを教えてもらいました。僕らはそうやって米軍基地の文化に影響を受け、恩恵を受けた最後の世代だと思います。

ある時、その米軍兵からこんなことを聞かれたんですよ。「君はヒップホップについてものすごく詳しいけど、韓国にはどんな音楽があるんだい?』って。当時の僕は何も知らなかったから、うまく答えることができなくて。その時、頭をポーンと叩かれたような衝撃があったんです。

2000年代中盤のソウルスケープは、ヒップホップというアメリカのストリート・カルチャーのことを知り尽くし、流暢に英語を使いこなすようになっていた一方で、自国の音楽文化について何ひとつ知らなかったという。同じころ、DJカルチャーの視点から自国の音楽文化を再評価しようという動きがアフリカやアジア、中南米など各地で見られるようになったが、そうした動きを推し進めていたDJたちの多くは、ソウルスケープ同様、ヒップホップやハウスなど欧米文化の子どもたちだった。

2008年、ソウルスケープは現在まで語り継がれる伝説的なミックスCD『THE SOUND OF SEOUL – Korean Rock, Soul, Disco, Boogaloo Mixed By Dj Soulscape』をリリースするが、それは先程の米軍兵が放った言葉――「韓国にはどんな音楽があるんだい?』――を契機とするソウルスケープの韓国音楽探訪の成果でもあった。自身の足元に広がるものへのまなざしはルーツ回帰的とも言えるが、ヒップホップ感覚によって「ルーツなるもの」を再構築するものでもあった。

また、韓国音楽をミックスするソウルスケープの試みは、いまだアーカイヴの作業が立ち遅れている韓国音楽の歴史をDJの視点から構築し、韓国大衆音楽のミッシングリンクを繋ぐものでもあった。

自分の活動で韓国音楽の歴史を構築したい

DJソウルスケープ 日本のようにひとつのカルチャーが形成されにくいのが韓国の特徴なんです。それぞれの活動で生計を立てるのが難しいため、長い期間活動するのが難しいということも要因のひとつでしょうね。いくら伝説的なバンドのメンバーであっても、今はどこで何をしていらっしゃるのか分からない方がほとんどですから。僕も80年代に活動していたナイトクラブ時代のDJとはまったく交流がないし、そういう世代間の断絶も大きな問題だと思います。

だから、僕は自分の活動によって韓国音楽の歴史をきちんと構築したいんです。過去のアルバムの復刻プロジェクトもそうだし、その延長で韓国音楽に関するデータベースを作る作業もやってます。(70年代の女性ディスコ・グループである)ハッピー・ドールズのリイシューをしたときは、自分の持っているかぎりの資料を集めてライナーノーツをまとめたり、当時の関係者に取材したりしました。


60~70年代の韓国産歌謡~サイケデリック・ロックのレコードは、現在、非常に高値で取り引きされている。シン・ジョンヒョンなどかつてのレジェンドたちのアルバムが世界中のコレクターの間で伝説化されたことに加え、ソウルスケープのミックスCDが各国で話題を集めたこともあるだろう。また、近年韓国では一種のレコード・ブームが巻き起こっており、BGMとしてレコードを流すレコード・バーが数年前からソウルのトレンドとなったことも影響している。

近年増えつつあるレコードバー。過去のレコードはこういう場所で聴けるものの、それがデジタルやリイシューの形で再び世にでることは極めて少ない

一方で、60~70年代のアルバムの復刻は遅々として進んでいない。その理由としては、当時の韓国音楽業界特有の事情がある。レコード会社とアーティスト、権利者による複雑な契約システム。当局による70年代のアンダーグラウンド・シーンの弾圧。レコードを「コレクション」する文化の不在。ソウルスケープも幾度となくそうした壁の高さに跳ね返され、復刻プロジェクトの多くが頓挫している。

「やっぱり韓国は日本と違いますからね」と話すソウルスケープは、今回通訳を務めてくれた長谷川陽平に対して「兄貴もそう思いませんか?」と同意を求める。

長谷川は90年代中盤より韓国で活動を続けるギタリスト。これまでにサヌリムなど韓国の伝説的なバンドに参加してきたほか、現在は人気バンド、チャン・ギハと顔たちの一員としても活動する。その一方で彼は韓国や中華圏を専門とするDJとしても活躍しており、膨大なレコード・コレクションを有する。ソウルスケープはそんな長谷川を尊敬し、「兄貴」と呼ぶのである。長谷川はソウルスケープの問いに対して「確かにね」と韓国語で答え、日本語でこう続けた。

長谷川 今から(韓国)歌謡のDJを始めようと思うと、韓国でもなかなか大変だと思うんですよ。韓国のレコードが高くなりすぎてなかなか買えなくなってしまったということはあるし、あと、日本だったらシティポップを聞こうと思ったらディスクガイド本があるわけですけど、韓国にはそういう資料がほとんどない。だから、何から聞いていいのか分からないんだと思いますね。

彼らによると、韓国音楽をレコードでプレイするDJはソウルでもごくわずか。ソウルスケープと長谷川のほかには、近年来日を果たして日本でも人気を得るタイガー・ディスコのほか数人だという。そうした現状を変えるため、2人は地道な活動を続けている。関連情報のデータベース化、過去音源のリイシュー、DJプレイ、メディアを通じたエデュケーション――やるべきことは山積みだ。

DJソウルスケープ DJプレイひとつにしても、『これ、知らないだろ?』という自己主張の強いものじゃなくて、若い世代の耳も引っ張るようなプレイを心がけています。聞き手の視野と裾野を広げていくのが自分の役目。その点に関しては使命感があるんですよ。

DJ Soulscape
コリアンヒップホップの黎明期である1990年代末からDJとして活動。韓国のストリート、ヒップホップシーンのオリジネイターとして広く支持を集め、2000年からは自身のトラックのリリースも行う。代表曲『Love Is A Song』は、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の映画『光りの墓』のテーマソングとして使用された。2000年代半ばからは1960〜70年代の韓国のサイケ歌謡やファンク、インスト・ジャズをミックスするスタイルのDJを開始、2007年リリースのミックスCD『THE SOUND OF SEOUL』及び続編の『MORE SOUND OF SEOUL』は、現在ほぼ入手不可能な伝説の作品となっている。


写真=鈴木 渉(ソウルスケープ)、熊谷 直子(レコードバー)
取材・文=大石 始
通訳=長谷川 陽平
企画=安東 嵩史 (TISSUE Inc.)

Korea Issue

関連記事はありません。There are no related articles.

#MUSIC

関連記事はありません。There are no related articles.

MOST POPULAR

LOGIN