ライターズ(Writers)〜「書く」ことを職業にした人々~
第1回:北尾トロ(ノンフィクション・ライター)前編

WEBマガジンにおいて最も重要と言える「文章」を生み出すライター。彼らが書いた文章は我々の目に触れ心を動かすが、そのプロセスを知る機会は少ない。しかし、彼らにもそれぞれの人生があり、数多の夢や挫折を経て培われたプロフェッショナリズムが存在する。
そこで、ライターによるライターへのインタビューを敢行。インタビュアーは東良美季氏。AV監督、音楽PVディレクター、グラフィック・デザイナーなど様々な職を経験した彼が引き出すライターたちの魅力に触れてもらいたい。

ライターの末席を汚す一人として、「書く」ことを「生業」にした方々のお話を聞きたいと思った。
一口に「書く」職業と言っても、それは思いの外多岐に渡る。誰もが思い付くのが作家だろうが、作家の中にも小説家、評論家、エッセイを中心に書く人がいて、小説家の中にも純文学から推理小説、時代小説から官能小説とジャンルは様々だ。
フリーライターと呼ばれる人の中には、経済ライターからITを得意としたライター、音楽ライターに映画ライター、フード系ライターの中には高級フレンチなどを食べ歩く人から、B級グルメライターにラーメン専門ライターといった人たちまでまさに多種多彩。
週刊誌の世界などでは、実際に取材をするデータマン(記者)と、その情報を元に記事に仕上げるアンカーと呼ばれるライターがいる。他にもシナリオライター、劇作家、テレビ番組の放送作家、漫画原作者も「書く」人たちだ。広義の意味では翻訳家や校正者も、その範疇に入るかもしれない。
彼らはなぜ「書く」職業を選び、どういう経緯でその道のプロフェッショナルとなったのだろう?
また現在、高校生や大学生の中にも「将来何かものを書く職業に就きたい」「でも具体的にどうしたらいいか分からない」と思っている人がいるかもしれない。
このインタビューが、そんな若い人たちへの、ささやかながらも指針のようなものになれたらとも考えている。

第1回のゲストは、ベストセラーとなった裁判傍聴記『裁判長!ここは懲役4年でどうすか─100の空論より一度のナマ傍聴』(文春文庫)で知られる、ノンフィクション・ライターの北尾トロさん。裁判だけでなく、妻子と暮らす自宅や仕事場とは別に、実際に見知らぬ街に6畳一間のアパートを借りて9カ月暮らしてみる『男の隠れ家を持ってみた』(新潮文庫)や、近年では自ら狩猟免許を取得して猟に挑戦する『猟師になりたい!』(角川文庫)など、リアルな体験型ライターでもある。
また西荻窪在住時(現在は長野県松本市在住)には、当時まだ珍しかったインターネット古書店を開業(その体験を元に『ぼくはオンライン古本屋のおやじさん』を執筆)、タウン誌『西荻丼』を創刊、2006年より現在まで続く本好きのためのイベント「西荻ブックマーク」を創始、2008年からは長野県伊那市高遠町にて「本の町プロジェクト」を手がけた。さらにはインディーズ雑誌『季刊レポ』(現在は休刊中)の編集長兼発行人を務めるなど、その活躍は多岐に渡る。

あのとき北尾トロが原稿を依頼してくれなかったら、僕はライターを辞めていただろう

北尾トロは、僕、東良美季にとって恩人である。あれは2013年のこと。関わっていた雑誌がすべて廃刊となり、僕は一切のライター仕事を失った。同時に軽度ではあるが深刻な鬱病になってしまった。というのは仕事をなくすと共に、ものを書く意欲まで失ってしまったからだ。明日からどうやってご飯を食べていこう、家賃はどうやって払っていったらいいんだ? という不安の前では、「自分が何を書きたいのか」という意識など、木っ端微塵に吹き飛んでしまった。
書きたいという意思やテーマがなくなってしまうこと──それは文章を書くことしか能のない僕にとって、大げさでなく地獄だった。だからもうライターは廃業して、別の仕事を探そうと思っていた。そんなとき、一面識もない僕に原稿を依頼してくれたのが、『季刊レポ』編集長の北尾トロだったのだ。しかもテーマは「書くことでしのぐ覚悟」。トロさんはこう言った。

「あのさ、東良さん。東良さんがどうしてライターになろうとしたのか、今回なぜ仕事を全部失ってしまったのか、そして、これからどうやって書き手として生きていくのか。それを書いてみない?」と。
当時僕は既に50代。にも関わらず情けないことに、自分がどうして物書きをやっているかを、一度として真剣に考えたことがなかった。ただ書くことが好きだから、自分にとって大切なことだから、それを職業にしているとボンヤリ思っていただけ。この仕事で「しのいでいく」という覚悟は少しもなかったのだ。だから実際にそれを失ってしまったとき、ただただ途方に暮れたのだと思う。
正直なところ今でも、「自分は何を書いて生きていくべきなのか?」、明確には分からないままでいる。このインタビュー企画を思い付いたのも、その答えを探しているからだ。
ただ、『季刊レポ』に「書くことでしのぐ覚悟」という原稿を書かせてもらったことで、やはりこれからも文章を書いて生きていきたいと、改めて思うようになった。もしもあのとき北尾トロが原稿を依頼してくれなかったら、僕はライターを辞めていただろう。そんないきさつから、第1回のゲストは、彼以外に考えられなかった。

2月14日、トロさんは『愛の山田うどん 廻ってくれ、俺の頭上で!!』(河出書房新社、えのきどいちろう氏との共著)でお馴染み埼玉県民のソウルフード、「山田うどん」のTシャツに、『季刊レポ』執筆者の一人山下陽光氏制作による「途中で(作るのを)やめる」ジャケットを羽織り、トレードマークのハンチング姿で「やあやあ」と、いつものように飄々と現れた。
初めて会ってから5年。北尾トロは僕の恩人だ。それは変わらない。僕は彼の文章のファンであり、尊敬する書き手の一人である。けれどこの歳月を通し、僕らは友達になった。

北尾トロ(本名・伊藤秀樹)。1958年1月23日、福岡県福岡市生まれ。

「ライターになったのは、うん、そうだね、大学を卒業するときに、サラリーマンだけには絶対になるまいって決めてたんだ。というのは親父が、僕が19歳のとき死んでね。まだ48歳だった。ウチの親父というのは全農(全国農業協同組合連合会)という、農協の親玉みたいなところの勤め人でさ。転勤が多くて、僕は福岡で生まれたんだけど、小学校の頃から九州を転々とした。中学2年のときに兵庫県の尼崎に引っ越して、そこで転校してすぐクラスのやつにボコボコに殴られたりした。博多弁がおかしいって笑われてね。そういうことがあって、子ども心に親父みたいな仕事は嫌だなあって思ってた」
「それが48歳の若さで死んじゃったでしょう。うん、急に。だってその日、僕は地元のパチンコ屋で親父に会ってるんだもん。そのときは日野市にいた。高校2年で東京に来たんだ。ちょうど今頃の季節だよ。一浪して受験に受かって(法政大学)、親父が歓んでくれたのを覚えてるよ。で、僕の方はもう勉強しなくていいんだって、その晩は友達の家へ麻雀しにいった。これが嘘みたいな話なんだけどさ、めちゃくちゃツイて、国士無双を上がったりした。ところが日付が変わった途端にがくんとツキが落ちてさ、雀卓を囲んでる友達は『まあ、もう昨日じゃないからな』なんて笑ってた。そこに知らせが来たんだ。『親父さんが死んだ』って」

「走って家に帰ったらもう冷たくなってた。風呂場で倒れた。心臓麻痺。突然死だよね。この人の人生、一体何だったんだろうって思った。一生懸命働いて、会社の命令聞いて全国どこへでも行ってさ、東京に引っ越した頃、そろそろ落ち着きたいって思ったんだろうね、『さてオレもマイホームでも建てるか』なんて言ってたんだよ。その矢先だった。僕は親父のような生き方だけはしたくない、それだけは頑なに心に決めてたんだな」
 サラリーマンだけにはなりたくない、そう決心していた若き日の北尾トロ青年だったが、他に何か確かな目標を持っているわけではなかった。法政大学を5年かけて卒業し、就職はせず、深夜に地下鉄の地盤沈下測量のアルバイトをして、趣味の競馬をやって過ごしていた。
「まあ、基本的に無気力な若者だよね。だからライターになろうとか、出版業界に入りたいなんて気持ちは一切なかった。本は好きだったけど、それはあくまでも読むものであって、自分が書くものじゃない。読書体験はね、まだ九州にいた中学1年のときに、北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』を夏休みの課題図書みたいなやつでたまたま選んで、そこから北杜夫、遠藤周作とかね。でもエッセイとか、簡単に読めるものばかりだよ。小説は、高校入った頃に筒井康隆の「幻想の未来」っていう中編(『幻想の未来』角川文庫・所収)を読んで、これが圧倒的に面白くてさ、そこからは筒井康隆にハマッて、そこから小松左京とか星新一に広がって、日本のSF作家を読んでた」

「ただそれよりも、10代の頃は映画だよね。その中2のとき同級生にボコボコにされてさ、悔しいんだけど、オレは喧嘩が弱いんだよ(笑)。だから仕返しもできなくて、じゃあどうしたかというと、心を閉ざしたんだ。1年間、学校へは行くけれど一切誰とも口を聞かなかった。先生が心配して家庭訪問に来たりしてた。で、何をしてたかっていうと、隣の伊丹市にあった名画座まで自転車で行くんだ。当時はクリント・イーストウッドやジュリアーノ・ジェンマ主演の「マカロニ・ウェスタン(イタリア制作の西部劇)」2本立てとか、そういうのを夢中で観てた」
「あとは当時のフォークソングだね。RCサクセション、古井戸(後にRCに加入するチャボこと仲井戸麗市がいた)、吉田拓郎とかね。そうそう、RCと言えば日野市に引っ越したとき、編入先を探したら都立日野高校が募集してた。日野高と言えば忌野清志郎の母校なんだよ。だから『やった!』と思って試験を受けて入った。何しろ『ぼくの好きな先生』(RCサクセション初期のヒット曲)のモデルになった、美術教師の小林先生という人がまだいたからね」
「高校時代は学校サボッて新宿の名画座に通った。僕は自分でも異常だと思うほど秋吉久美子が好きでさ、『赤ちょうちん』『妹』『バージンブルース』(すべて1974年日活作品/監督・藤田敏八)なんて映画を繰り返し何度も何度も観た。映画館に通う楽しさを知ったという意味では、あの心を閉ざした中2の1年間は、僕にとっては大きかったな。それで映画監督なんていいなあ、なんて思いつつ、でも具体的なアクションは何ひとつ起こさなかったんだけどね」

大学の後輩に泣きつかれて頼まれ、編集プロダクションでアルバイトを始める

そうやって大学を卒業しても就職することなく過ごしていたトロ青年だったが、まったくの偶然というか、あるきっかけで流されるまま出版業界に入ることになる。編集プロダクションでアルバイトをしていた大学の後輩が、就職が決まり故郷に帰ることになった。そこで「先輩、代わりに入ってもらえませんか? 僕、後釜を探さないと辞められないんです」と泣きついてきたのだ。
「僕が入ってからもそうだったけど、編プロというのはとにかく慢性の人手不足なんだよ。だからそういう大学生のバイトにまで企画を出させるわけ。で、その後輩はことあるごとに『先輩、何ンか企画ないですか』って電話して来てたんだ。僕は雑誌が好きでさ、筒井康隆が(12代目)編集長だったこともある『面白半分』とか、同じ判型で『絶体絶命』ってのもあった。他には『HEAVEN』(群雄社、初代編集長は高杉弾)とかね。それで『こういうのがいいんじゃないの』なんて偉そうにアドバイスしてたんだ」

このような経緯で、北尾トロはまったく自分の意思とは関係なく、編集プロダクションでアルバイトを始める。現在まで付き合いの続く盟友・下関マグロとも、そこで出会う。マグロさんは出入りする駆け出しのフリーライターだった。この辺りのことは『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』(ポット出版 2011年、北尾トロ・下関マグロ共著)に描かれているので、興味のある方はぜひお読みいただきたい。僕は同世代だから特に強く感じるのだが、ページの端々から「あの頃」の風が吹いてくるような、リアルな名著である。
「半年くらいいたのかなあ。でも、やることはいわゆる編集アシスタントでしょう? これがね、僕にはまったくできなかった。まず気が利かない、行動力がない、人見知り。何しろ電話ひとつまともにかけられないんだから。先輩編集者から『著名人からコメントもらって』って言われて、電話の前で2時間くらいジーッとしてる。そのくらいヒドかった(笑)。やってたのは『スコラ』(株式会社スコラ)や『GORO』(小学館)とかのページ受け。それと『週刊ポスト』(小学館)をやってたんだよ。東良さんは同世代だから分かると思うけど、あの頃『週刊文春』(文藝春秋)で三浦和義のロス疑惑、「疑惑の銃弾」報道がすごくてさ。ポストも文春に負けるなって、各所に猛然と取材をかけようと、その編プロはもう全員がざわめき立ってるわけ。ところが僕はまったくもって興味が持てなくてさ。何が面白いんだかさっぱり分からない。これはもう、本当に向いてないなあと思ってさ」

しかし、北尾青年はそのまま出版界からフェイドアウトしていくことはなかった。その編プロに出入りしていた4歳ほど年上のライターから、「伊藤ちゃん(本名)は文章がそこそこ上手いんだから、ライターになればいいじゃん」と勧められ、フリーランスの書き手になってしまうのだ。
僕は常々思っているのだが、北尾トロという人は圧倒的に文章が上手い。どのくらい上手いのかというと、読者が普通に読んでいたら「この人、上手だなあ」と一切感じさせないくらい上手いのだ。それが先天的なものなのか、雑誌好きであり、少年時代から北杜夫や筒井康隆といった達人の文章に親しんできたせいかは分からない。しかしその読みやすさと原稿が醸し出す臨場感、リアルな肌触りといったものは1994年37歳のとき、北尾トロ名義で初めて書いた処女作『彼女が電話をかけている場所─通話中』(芸文社 1994年)の時点から際立っている。
「なんでそんなにあっさりとフリーライターになってしまったかというとね、出版業界を舐めてたからだよ。だって編プロ時代から、僕みたいな大学出たての、電話もロクにかけられないような若僧に平気で文章書かせるんだもの。フリーになってからも、その先輩ライターにくっついていたら、そこそこ依頼が来るんだよね。そんなの、普通の世界じゃありえないでしょう? 例えば大工さんとか、鮨職人とかさ。普通は何年も辛い修業をして、初めて仕事を任されるわけでさ」

「時代も良かったんだよね」とトロさんは言う。
そう、日本中がバブル景気に突入しようとしていた。出版の世界でも、雑誌は出せば出すだけ売れた。どの版元も、フリーのマガジンライターを求めていた。
1987年原田知世主演の映画『私をスキーに連れてって』(原作:ホイチョイ・プロダクション)が大ヒットし、空前のスキーブームがやって来る。前述の『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』によれば、その前年、学習研究社(学研)から『ボブ・スキー』という雑誌が創刊されることとなり、北尾トロと下関マグロは、まともに滑れないにも関わらず、レギュラーライターとなる。
しかしここで二人は編集部から「ゲレ食」、つまりゲレンデの食堂を取材するよう依頼され、「あえてカレーとラーメンに絞って食べまくる」など、既に現在の『町中華とはなんだ 昭和の味を食べに行こう』(立東舎 2016年、 北尾 トロ 、下関マグロ、 竜超 ・著)にも通じる、独自の取材スタイルを取るようになる。またオフシーズンには同じ学研の『ティー・テニス』というテニス雑誌にも関わり、本文から見出し、リード(冒頭文)、写真キャプション(説明文)まで、大量の雑誌原稿を書きまくることによって、自然に文章のテクニックを身に付けていったと思われる。また二人はこの時期から、本名の伊藤秀樹と増田剛己名義の他に、それぞれ北尾トロ、下関マグロというペンネームを使うようになる。

彼らは「脳天気商会」というユニット名で『週刊就職情報』(後に『ビーイング』と改題、リクルート)でも連載を開始。続けて下関マグロの高校時代の友人で、ヴァイオリンやピアノを弾きこなす「岡本君(通称・おかもっちゃん)」なる人物と3人でバンド活動を始める。『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』は、会社員だった岡本君もライター業に興味を示し始め、「おかもっちゃんはきっと会社辞めるだろう」「そうなったら脳天気商会は編集プロダクションになるかもしれない」と匂わされたところで終わる。
その数年前、北尾トロは、本名の伊藤秀樹として初めて単行本を執筆している。「文章が上手いんだからライターになればいいじゃん」と勧めてくれた先輩からまわってきた話だった。書名は『サラブレッドファン倶楽部─ケイバ雑学わんだーらんど』(ナツメ社)、27歳の秋であった。
「その頃はね、競馬人気が低迷してたんだ。それで出版社が若い人にアピールできる競馬の入門書を出したい、書けるライターを探してると。で、その先輩が『お前、競馬詳しいじゃん。書いてみろよ』って。うん、競馬はね、高校の頃からやってた。親父が好きでさ、日野市だから東京競馬場が近いじゃない? だから馬券買いに行かされたりしてね。そこから自分もやるようになって。ちょうどハイセイコーが人気で、社会現象みたいになってた頃だよ。当時は世の中も甘くて、高校生が競馬場に行くのも大目に見てもらえるような時代だったんだね」

「最初はそんなふうに、単に背伸びしてギャンブルやるみたいな感覚だったんだけど、高校を卒業してすぐ、北海道に旅行したんだ。日高地方に。あそこは日本一の競走馬の産地と言われていて、牧場がたくさんある。それが本当に楽しくて、ユースホステルに20泊くらい、ずーっといた。で、当時旅をしてる大学生とかは、アメリカのユース・カルチャーやヒッピー・カルチャーみたいなものに詳しい人が多くてさ、僕はまだ18歳だったから、色々教えてくれるんだ。「ザ・バンドは聴いてる?」とか「グレイトフル・デッドはいいよ」(※注)なんてね。その体験は僕にとってとても大きかったんだ。だから大学に入っても毎年のように行ったし、牧場でバイトさせてもらったこともあったしね」
しかしそんな好きな競馬について書いたものの、初めての単行本は少しも納得できるものではなかった。
「成り行きで始めたようなライター業だったけど、その頃には少しずつ面白くなってた。だから自分なりに面白いものを書きたいという色気はあるんだけど、入門書でありガイドブックなので、基本的に〈面白さ〉というのは必要ないわけだよ。それより分かりやすさであったり、馬券の買い方とか、オッズの見方なんかを説明しなきゃならない。だから一生懸命書いたけど、どうにも中途半端なんだな。紀伊國屋書店なんかに自分の書いた本が並べられるわけだから、一瞬は嬉しかったよ。でも、内容が全然面白くないのは自分でも分かるわけ。競馬好きな人には全然響かないだろうし、初心者の人にとっても興味は湧かないだろうと。だからすごく気落ちしたよね。まったく売れなかったみたいだし」

『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』の巻末には著書一覧があり、そこには『サラブレッドファン倶楽部〜』の次に、『入門 図解で企画ができる本─図とチャートがスラスラ書ける 見せる企画書とプレゼンのためのビジュアル・テクニック』(かんき出版 伊藤秀樹名義 1991年)という書名が並んでいる。
「その頃、実用書も出してるよね」と聞くと、トロさんは、「痛恨の黒歴史ね」と苦笑した。
「結局、脳天気商会は岡本君を社長にして、編集プロダクション兼ライター集団みたいになったんだ。千駄ヶ谷に事務所を借りてね。で、その少し前にマグロさんが初めての著書を書いた。『「知的メモ術」入門─アイデアと情報を3倍に活かす!』(かんき出版 増田剛己名義 1989年)という実用書。これが売れた。それで事務所に来た出版社の人が、『伊藤さんも書いてみればいいじゃない?』みたいな感じで。だからあまり深い考えもなく仕事として引き受けたんだけど、これがまったく書けない。冷静に考えれば当たり前だよね。僕は企画書だとかプレゼンだとかにまったく興味がないんだから。だから実は半分くらいしか書いてない。残りはマグロさんや岡本君に手伝ってもらった。ところがこれがソコソコ売れたんだ。いきなりの増刷。何なんだよ、これって思ったよ」

(※注)
ザ・バンド (The Band)は 、1960年代半ばから70年代にかけて活躍したアメリカのロックグループ。ボブ・ディランのバックバンドを務めたことでもしられ、解散コンサートはマーティン・スコセッシ監督の手によって、映画『ラスト・ワルツ (The Last Waltz)』として公開された。

グレイトフル・デッド(Grateful Dead)は 、1960年代半ばから1995年まで活動したアメリカのロックグループ。初期はサンフランシスコを拠点にし、ヒッピー・ムーブメントの象徴と言われた。

ライターなんてチョロい商売だと思ってた。でもこのままだと、自分自身もチョロいままで終わると気づいた

この2冊の本の経験が、北尾トロの分岐点だった。
「結局さ、ライター業を舐めてたんだよ。チョロイ商売だった思って始めたけれど、そのとき気づいたんだ。このままだと、自分自身もチョロイままで終わるぞって」
その次に、伊藤秀樹名義の最後の本『馬なりの人生』(日本能率協会マネジメントセンター 1992年)が出版される。今、Amazonに引用されている「BOOK」データベースによれば、「生き字引的な調教師、シビアに予想するトラックマン、GIホース誕生に賭けた生産者、公営の「鉄人」騎手…。競馬をめぐる10人の脇役たちの生きざまを描いたスポーツ・ドキュメント。」という内容だ。
「自分自身が興味を持てないような本書いてちゃダメだって心底思った。ちょうど30歳を過ぎた頃だったし、一度全力投球で、精一杯自分の持てる力を出し切って書かなければと思った。そこで、自分が一番好きなもの、自発的にやれるものは何だろうって考えたとき、やっぱり競馬だと。そして、競馬っていうのは様々な人たちに支えられて成立してるものだから、裏方の人たちを紹介しようと考えた。そこで自分で調べて、牧場の人たちとかに手紙を書いて、取材を申し込んで、ということを初めてやった。それで全部自腹で取材に行ったんだ」

驚いた。「ちょっと待って、じゃあまったくあてのないまま、出版社に企画を持ち込むとかじゃなくて一人で始めたわけ?」そう聞くとトロさんは、「そうだよ。だってさっき言ったように僕は企画書とか書くの苦手だし、ましてや売り込みなんてできないんだから」と笑う。
「調教師さん、地方競馬の騎手、あとは蹄鉄師とか。やっぱり競馬が好きだったからさ、気になる人がいるわけだよ。だけどそう簡単に会えないので、手紙を書いたり人を頼ってお願いしたり。いきなり訪ねて行ったこともあったよ。大井競馬場とかをウロウロして、『何だお前は?』って言われて『実は……』みたいな(笑)。出版のあてはまだないんですが、取材させてくださいって」
幸運にも、下関マグロを訪ねて脳天気商会にやって来た出版社の人が、彼がその取材を進めていることを知った。そこで「会議にかけてみます」となり、結果企画が通った。

「やっぱりね、ライターとしてやって行くんならここが分かれ道、みたいな気持ちはすごくあったと思う。だからこれを出せたときは本当に嬉しかった。ところが、まったく売れなかった(笑)。僕としては100%の力を出し切って、自分でも面白い本が書けた自信があったからさ、この本が出たら競馬雑誌がオレを放っておかないね。じゃんじゃん連絡があって、オレはもう新進気鋭の競馬ライターとして颯爽とデビューだな、なんて思ってた。ところが何の反響もなくてさ」
「でもね、そんなことよりも何よりも、そのとき思ったのは、一生懸命お願いすれば、取材させてくれるんだってことだった。つまり僕はさ、電話一本かけられない男だったわけじゃない? それが誠心誠意立ち向かえば、熱意って伝わるんだ、好きな人、会いたい人に会えるんだって面白さだよね。実はこれがさ、ライターという仕事の一番の歓びなんじゃないかな。それまではまず企画があって、編集者に行けって言われて取材に行くだけ。署名記事であったとしても、特集とかに関わる数名の書き手の中の一人でしかなかった。ところが自分で考えて自分の意思でということをやってみたら、これが驚くほど面白かったわけだよ」
こうして『馬なりの人生』という本を通して何かを掴んだ伊藤秀樹は、いよいよ北尾トロ名義の第1作、『彼女が電話をかけている場所─通話中』(芸文社)に取りかかっていく。そしてこれもまたまったく出版のあてなどない、100%自主的な行動だった。

(中編へ続く)
ライターズ(Writers)〜「書く」ことを職業にした人々~ 第1回:北尾トロ(ノンフィクション・ライター)中編


写真=川上 尚見
取材・文=東良 美季

#CULTURE

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