「気づいたら、きっと勝手に未来になってる」 喪失を胸に、石田真澄が撮っていく“日々の写真”とは

昨年後半から今年初頭にかけ、若い写真家たちや写真好きの間でにわかに騒がれ始めた「石田真澄」という写真家の名前。その時点ではまだ現役の女子高生だった彼女が鮮烈に切り取る「なんでもない日々」の美しさに多くの人が魅了され、4月には早くも表参道ROCKETで初個展を開くに至ったニューカマーだ。

そんな彼女も、今春、高校を無事に卒業して大学へ。しかし、そこで直面したものは、これまでの濃密な時間とは全く別の、まさにこれから始まる「終わりなき日常」のような世界だった。

これから、私はどうやって生きていくのか。どう写真を撮っていくのか——。「ミレニアル」などと通り一遍の言葉で括られながら答えなど何ひとつ与えられない彼女の世代、そして若き日々のそのような漠とした不安を忘れて大人になっていった世代の人々に向けて、現在進行形で模索を続ける彼女の切実な、しかし確かな言葉を、今回の取材のために新たに撮り下ろしてもらった写真とともにお届けする。

女子高生じゃなくなるのが本当に嫌だった

——今回、「Z TOKYO」のために新しい写真を撮りおろしていただき、ありがとうございます。今年5月に初めての個展を開催されたばかりの石田さんですが、「現役女子高生写真家」から「女子高生でなくなった写真家」として何を思い、何を撮るのかについてお伺いできればと。

いやあ……なんか、すごく嫌ですね(笑)。最近、まだ高校生の頃にインタビューを受けた記事がTwitterで流れてきたので久々に見返したんですけど、「まだあの頃は何もわかってなかったんだな」って改めて思って。

——何も、というと?

あの頃は、本当に自分が何を撮っているのかもわかってなかったんじゃないかなと思うんです。もちろん写っているのは友人たちだし、その時は単に日々の記録のつもりで撮っていたんですけど、今になって見返したら、すごく「自分のため」に撮ってるなと。

——何か切実な思いや動機があったということですか?

「私、女子高生じゃなくなるのが本当に嫌だったんだな」と思ったんです。中学・高校と一貫校で、ずっと同じ友達の中で生きてきたから、それが終わってしまうのなんて信じられなかったけど、現実に時間は過ぎて、高2・高3となっていく中で、確実に「終わり」が見えてくる。必ず用意されたその「終わり」を感じながら、それでも日々楽しく過ごしてはいたんですけど、どこかで「全てが決定的に変わってしまう」という気持ちがあって。だから、変わっていってしまうものを、実は自分のために必死に捕まえようとして撮った写真なんです。だから、それが終わってしまった今、当時の写真を見返すことは、私にはまだ痛みを伴うというか。

キラキラしているのは「終わってしまう」から

——卒業して半年も経っていないから、痛みや寂しさもまだヴィヴィッドなままということですね。

今回も女子高生の写真を撮ったんですけど、もう私が女子高生だった頃と同じような距離感では撮れないし、だからと言って完全に俯瞰して撮ることもまだできない。なんというか、すごく憧れながら、胸を痛めながら撮ってて。気づいたら、ものすごい枚数になってました(笑)。

過去への執着がすごく強いタイプだから、色々な人に「大人になると楽しいよ」と言われても「そんなの知らないし、あの頃が楽しかったんだもん!」と思ってしまうんですよね。

「今」がなくなってしまうことへの不安もすごくて、例えば、高校最後の文化祭が2日間あったら、まず準備段階で「ああ、始まったら終わっちゃう」と思うし、初日が終わったら「もう1日目が終わった」と思い、完全に終わった後は「ああ……終わってしまった」と。

——なるほど。初めて写真を見た時に「信じられないくらいキラキラしている」と思ったんですが、それはその「キラキラした時間の真っ只中にいるから」というよりは、「終わってしまうこと」を意識しながら撮っていたものだからなのかもしれないですね。

キラキラ……してるんですよね。それすらも高校の時にはわかっていなくて、写真家の東海林広太さんから「真澄ちゃんの写真はいつもキラキラしてるよね」と言われて初めて「そうか」と思ったくらいで。そもそも、Instagramに写真を投稿したりはしていたものの、「そんなに多くの人が見てくれているんだ」という意識が芽生えたのも、ほぼ昨年末でしたから。

ひとつの時間の終わりに、まだ続いているもの

——「見られている」という意識がなかっただけ、その時間を忘れたくないという強い動機が純粋に写真に出ているんでしょうか。

そうなんですよね……だから、そこから離れた今、当時の写真よりいい写真が撮れるのかどうかは、正直なところわからなくて。

——なるほど。濃密で特別な時間が終わってしまった虚脱感みたいなものがあるんですか?

一時は、高校生活が終わって「写真を撮る理由がなくなってしまったな」と思ってた時期があるんです。高校の頃の——正確にいうと、18歳になったらもう「終わり」が見えてきてさっき言ったような不安にとらわれ始めていたので、17歳の頃——の無敵感がなくなってしまって、まだそれに代わるものを見つけられていないんですね。

ただ、そんな中でも確かに残ったものがやっぱりあることに、最近は気づいてきて。この写真に写ってる友達だったり、ずっと撮ってる弓ライカというモデルの子だったり、あとは、光。光という、時間や角度によっていくらでも変わっていってしまうものを追うこと。それは「高校生活」という巨大なものの中でずっと継続的に続けてきたことだし、それがなくなっても残っていて、これからも続いていくものなんですよね。

——「終わってしまった」という痛みがまだ鮮明でも、実はそこから先へと続く時間の流れを生きていることを見出したというわけですね。

そうですね。高校生活というひとかたまりの時間が終わらなかったら、気づかなかったことかもしれない。それに気づけたから「撮り続けよう」と思うことができたし。

不確かであることの面白さがわかってきた

——石田さんのこれまでの写真に写っている美しい「刹那」みたいなものが「全ては変わっていってしまう」という、いわば悲観的な意識から来ているとしても、結局「変わっていくから撮る」という行為はこれからも常に続いていくんですよね。

私の写真は、そもそも常にどこか俯瞰的なところがあって。高校の頃、具合が悪くて体育の授業を休んだ時に、外から見ていると、授業中のみんながものすごくキラキラ、楽しそうにやっていてるのを見て「私たち、こんなにキラキラしてたんだ!」と、初めて気づいたことがあるんです。それから、その真っ只中にいてはわからないものがあるということを意識しながら撮るようになったんです。

だから、私の写真は人にフォーカスして撮っているものよりは、どこか引き気味で撮っているものが多いのかもしれません。人がいることも含めた風景を俯瞰してるというか。

——バシッと顔や表情がわかるというより顔が見えなかったり、脚だけだったり階段だったり、説明をしすぎず見る人の想像力に任せるタイプの写真ですね。

写真に写っているのは流れゆく時間の中の「ある一瞬」なので、その前後にどんなストーリーがあったのか、それを見る人が自由に想像できるようなものになればいいなと思うんです。それを考える余白をたくさん残しておくというか、「不確かであること」っておもしろいなと。俯瞰するということは結局「変わっていくものを見届ける」ということでもあるんだなと思うし。

——そうした不確定性への共感のようなもので写真を撮っているのだとしたら、もし「永遠に高校生でいいよ」と言われたら1枚も撮ってない可能性がありますね。

そうかもしれません(笑)。

——「終わりたくない」という気持ちの一方で、変化していく流れの中に身を置くことへの、恐れも含めた期待もここに詰まっている気がする。それは、どう考えても未来への希望だと思いますけどね。

気づいたら、きっと勝手に未来になってるんですよね。だから、今は何を撮ったらいいのか全然わからないんですけど、いいと思わない自分の写真でも、今いいと思わなくていいんだなって気持ちになってきています。撮り続けていれば、5年後に見たらすごくいい写真だと思うかもしれない。

怖いけど、なるべく考えないようにしながら進んでいこうと思います。

写真/石田真澄
インタビュー・テキスト/安東嵩史

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