ライターズ(Writers)〜「書く」ことを職業にした人々~ 第4回 池田園子(WEBライター/編集者)前編

WEBマガジンにおいて最も重要と言える「文章」を生み出すライター。彼らが書いた文章は我々の目に触れ心を動かすが、そのプロセスを知る機会は少ない。しかし、彼らにもそれぞれの人生があり、数多の夢や挫折を経て培われたプロフェッショナリズムが存在する。
そこで、ライターによるライターへのインタビューを敢行。インタビュアーは東良美季氏。AV監督、音楽PVディレクター、グラフィック・デザイナーなど様々な職を経験した彼が引き出すライターたちの魅力に触れてもらいたい。



第4回のゲストは、WEBライティングを中心に活躍するフリーライターであり、女性向けWEBメディア『DRESS(ドレス)』の編集長の池田園子さん。中央大学法学部を卒業後、「楽天」「リアルワールド」とIT系企業を経て、25歳の時に独立。フリーランスのライターとなる。執筆のテーマは恋愛から働き方、ファッション、グルメ、ITマーケティングからプロレスに相撲と、「幅広い」という言葉では足りないほど多岐にわたる。著書に『フリーランスで食っていきたい!』(ぱる出版)、『はたらく人の 結婚しない生き方』(クロスメディア・パブリッシング)。

池田さんの持つ不思議な捉えどころのなさは、彼女が活躍するWEBメディアそのものを象徴しているような気もした

清潔な人、涼しげな人──という印象があった。2018年の東京は観測史上初、6月中に梅雨が明けた。このインタビューが行われた7月2日も、正午を過ぎた段階で34℃を超えていた。僕らはカメラマンの川上尚見さんと共に「Z TOKYO」編集部のある建物の前で待ち合わせをし、初対面の挨拶もそこそこに「暑いですねえ」と言い合ったのだが、純白のブラウスに身を包んだ池田さんは、そう言いつつも汗ひとつかいていないように見えた。まずはいつものように会議室をお借りして写真撮影となるのだが、川上さんはシャッターを切りながら「(撮っていて)面白い人」と表現した。もちろんこの「面白い」とは、ジョークを口にするとかお茶目な人という意味ではない。被写体として多彩な面があるということだろう。そう、池田園子さんはいい意味で、簡単には捉えられない人に見えた。中央大学法学部を卒業後、「楽天」「リアルワールド」とIT系企業を経て、25歳のときフリーランスのライターになった。それから約7年、執筆のテーマは恋愛から女性の働き方、ファッション、グルメ、ITマーケティングから不動産投資、さらにはプロレスに相撲と、「幅広い」という言葉では足りないほど多岐にわたる。

池田園子さんの存在を知ったのはツイッターだった。インターネットというのは今さらながらにして不思議なシロモノだ。こちらが能動的に何かを調べようと検索すればそれなりの結果が得られるのは当然なのだが、それ以外に、知らないうちに集積された知識や情報というのもある。大げさな言い方をすれば、ハンガリーの科学哲学者マイケル・ポランニーが言うところの「暗黙知」のようだ。「暗黙知」の説明によく使われる例が自転車である。我々は自転車に初めて乗ろうと試みてやがて乗りこなせるようになるまでに、おそらく数々の難しい技術を習得しているはずだ。けれど、普段それを決して意識しない。また、人にその技術を説明する術を持たない。池田さんの持つ不思議な捉えどころのなさは、彼女が活躍するWEBメディアそのものを象徴しているような気もした。

僕は約13年間にわたり「毎日jogjob日誌」というブログを毎日更新していて、フェイスブックとツイッターに連動させている。ただ自分で発信するのはブログ、知り合いの動向を知るのはフェイスブックなので、ツイッターはそれほど熱心に見ているわけではない。それでも数年前から、「池田園子」さんという名前が頭に残るようになってきた。おそらく僕がフォローしている人やフォローしてくださっている方が、彼女の書いた記事を「面白い」思ってリツイートしたのだろう。その情報が知らず知らずのうちに集積されたのだ。

この連載『ライターズ(Writers)〜「書く」ことを職業にした人々。』は、これまでベテランの書き手の方々にご登場頂いたのだが、「Z TOKYO」編集担当・Kくんは「若い人にも出てもらいたいです」と言う。1990年生まれで自身も前職はライターだった彼は、キャリアの長い人の話も参考になるが、同世代の人からの刺激ももらいたいようだ。もちろん僕も、若くして活躍されている方のお話も聞きたい。ところが悲しいかな社交性に乏しく友だちも少ないので、お願い出来る人がいないのである。ところがある日、僕が昨年11月に出版した『デリヘルドライバー』(駒草出版)を、池田さんがツイッターでご紹介くださっているのを発見。「これはご縁があるということかも?」と依頼、ご快諾頂いたという次第である。それでは、インタビューを始めよう。

池田園子。1986年生まれ、岡山県出身。2015年末より、女性向けWEBメディア『DRESS(ドレス)』編集長。

彼女は3歳から日記を書き始め、高校2年生まで続けた。小学校3年生からは地元の新聞に投稿を始め、これも故郷を離れる高校3年生まで続ける。そして中央大学在学中には、同校の学内向け広報誌『HAKUMON ちゅうおう(現在は『HAKUMON Chuo』と表記)』の学生記者になった。さらにIT系企業OL時代より、兼業ライターとして活動する。世の中にプロフェッショナルな書き手と呼ばれる人は数多くあれど、池田さんほど幼い頃から「書く」という習慣を身に付け、言わば「アマチュアの時代」から膨大な原稿を書いてきた人も珍しいのではないか? お話はそこから伺っていくことにした。

「私、3人きょうだいなんですね。私が長女で、2歳下に弟がいて、5歳下に妹がいます。母が教育熱心な人で、というか、一番上の子どもだから、とくに色々と手をかけて育ててくれました(笑)。文章を書くということなら小学校に上がる前に家で出来るので、日記は教育の一環で書かされたんだと思います。実家に戻ると、今でも母が日記帳を取っていてくれて、見ると最初の頃は事実の羅列というか、『今日はどこに行った』『誰々ちゃんと遊んだ』という手帳のメモみたいなものです。『楽しかった』とか『嫌だった』とか、そういう感想めいたものが出てくるのはもう少し後になってからですね」

でも、毎日書いていたんでしょう? と聞くと、「基本的に、そうみたいですね」と笑う。これも、僕が感じた池田さんの「面白い」ところだった。彼女は過去の自分を語る時、常に少しだけ「他人事」のようだった。それは過去に対して興味がないというよりは、距離を置いてクールに眺めているように見えた。人は自分を語るとき、ともすれば「私はこんなに頑張ったんです」とか「大変な思いをしたんです」と主張しがちだが、彼女にはそういった暑苦しさがなかった。冒頭に書いた「涼しげ」いう印象は、そこから来ているのかもしれない。

「そんなふうに母の子育てに気合いが入っていたので、絵本の読み聞かせとかはたくさんやってもらってたんだと思います。世界の童話集みたいなものも、家にたくさんありました。すごく分厚いのです。そういうのを読んでいたので、文章というものには自然に触れていたんだと思います。だから文章を書くということが、何の苦にもならなかったんじゃないでしょうか。ノートに書いてました。時には可愛い日記帳みたいなものもありますけど、中学くらいになると大学ノートですね。ええ、思春期になると恋愛の悩みみたいなことも書いてますよ、今見ると『恥ずかしい!』って飛び上がりたくなるようなことも」

小学校3年の時から始めた新聞の投稿は、ほとんどボツになったことがなく毎回掲載された

そして、小学校3年の時から新聞に投稿を始める。

「父はシステム系の会社に勤めていて、でも私が高校生の頃には早期退職して、現在に至るまでずっとタクシーの運転手をしてます。母も子どもが3人いるのでフルタイムでは働けなかったようですが、それでもパートで保険の外交員をやったり、着物屋さんでアルバイトをしたりしてました。そんなごく中流の家庭なので、やっぱりお小遣いはあまりもらえないんですね。小学3年生で500〜1000円だったような記憶があります。そこで母に『もっとお小遣い上げて』って抗議したら、『あなた、文章書くの好きなんでしょう? だったら新聞に投稿しなさい。掲載されたら図書券がもらえるよ』って言われたんです。お小遣いの増額はしないけど、稼ぐ方法は教えてあげるよと、そそのかされたというか上手く丸め込まれたというか(笑)」

その頃彼女は講談社発行の漫画雑誌『なかよし』に夢中だった。『ちゃお』(小学館)と『りぼん』(集英社)と並ぶ、3大小中学生向け少女漫画雑誌である。

「『りぼん』は甘すぎる感じで、『ちゃお』にはちょっと幼いという印象がありました。その点、『なかよし』って「セーラームーン」とか、ちょっと自立した女性像が描かれる感じがして。他にも、CLAMP(クランプ=大川七瀬、いがらし寒月、猫井椿、もこなの4人からなる漫画家集団)さんの作品とか、カッコよかったんです。可愛いものよりカッコイイものに憧れていて、『なかよし』を買ってたんですけど、300円だとそれだけで無くなっちゃうんですね。子どもだから他にお菓子とかも買いたいし」

『山陽新聞』という、岡山を中心に広島と香川の一部に配達される地元紙である。初めての投稿から採用された。

「言わばいい子というか、優等生的な文章を書いたんだと思います。そうしたら載せてもらった。それで味を占めて、ほぼ毎月投稿するようになって。1回の謝礼が確か(図書券)2,000円分くらいだったので、一気にお金持ちですよね。500円の生活から2,500円になるという(笑)。内容ですか? う〜ん、あまり覚えてないんです。決して褒められたものではない振る舞いをしている人とか、なんでこんな行動をするのだろうと疑問に感じた人とか、そんな人たちから着想を得て書いていたと思います。1カ月に1本のペースで投稿して、あまりボツになった記憶がないんですね。だから相当大人受けする文章を書いてたんだと思います。というか、新聞社のオジサンに好かれる文章ですよね」

こうなってくると、投稿というよりも賞金稼ぎである(笑)。つまり池田さんは小学生の頃からある意味でプロフェッショナルだったのだ。こう書いてしまうとこまっしゃくれた可愛げのない子どものように思えてしまうが、小学校後半から中学の初めにかけては、少女らしい豊かな感性で、詩の投稿も始める。

「本や雑誌をもっと買いたかったんです。特に中学生くらいからは『明星』(集英社)とか『平凡』(マガジンハウス)とかですよね。地方にいる女子にとって、心を癒すものってジャニーズくらいしかないんです。私の世代だと滝沢秀明さんや関西ジャニーズの村上信五さん。そういう好きなジャニーズ・タレントさんの写真を切り抜いて文房具に挟んだりして。そのために日々投稿して、潤いを頂いていたという(笑)」

一方、池田さんは少女時代から、決して文化系一直線というわけではなかった。小学校5年からは近所の剣道クラブに通い、中学時代は陸上部で短距離を走り、大学では合気道のサークルで活動した。

「私、昔から強くなりたいというか、生き延びなければならないということを考えていたんです。それはなぜかというとある日、母親から『あなたは決して顔がいいわけじゃないんだから、結婚出来るとは限らない。だからちゃんと勉強していい大学に入っていい会社に就職して、自分で仕事を持てるようにならなきゃだめよ』と言われたんです。それは確か中学生の頃で、ダイエットを始めたり見た目ばかり気にする年頃で、勉強をサボッている私を叱る意味で、キツい言葉を放ったと思うんですけど、でも、すごく響いたんです。なので将来は仕事の面でも、心身共に強くならなければいけない。それで武道をやったと思うんです。人に頼らないというか、いざという時に男性に頼らず生きていけるようにと」

ここまで聞いただけでも、やはりとても多面性のある人だ。優等生的な文章で子どもながらお金を稼いだかと思うと、ジャニーズ美少年に心惹かれ、半面、武道で心身を鍛えていく。これは池田さんの現在の仕事と合わせ鏡のように一致する。例えば『DRESS(ドレス)』で彼女がアップした記事の一覧を見るだけでも、<「極上肌」はシンプルかつ正しいスキンケアでつくられる>という美容系があると思えば、<カンボジア・プノンペン女ひとり旅、7のTips。>という旅行の心得があり、プロレス団体「DDTプロレスリング」の若手レスラー・竹下幸之介へのインタビュー<目が離せない男、竹下幸之介>があって、<女性に知ってほしい「レズ風俗」の話>という「真面目な」セックス系の記事がある。こうなるともう、単に守備範囲の広いライターではない。「池田園子」という存在自体が多彩なのだ。

そんな彼女の思春期はどんなものだったのだろうと水を向けると、「結構ダークな感じですよ」と、少々自嘲的な答えが返ってきた。

「高校が割と新しめの学校で、岡山城東高校(1987年開校)というところなんですけど、県立の普通科の中に英語をやる国際系(「国際教養学類」)や、音楽に特化したコース(「音楽学類」)などを備えているところだったんです(他に「人文社会学類」「理数学類」の全4コースがある)。高1までは全員一緒なんですけど、2年生から分かれるんです。私は『いつか英語を使って仕事できるようになったらいいな』という理由で国際系に進んだんですけど、そこはギャル系の娘が多くて、私はギャルじゃないんで、結構浮いてしまった。制服はあるんですけど校則がないという、これも地方の県立高校では珍しいと思うんですけど、だからみんな金髪まではいかないけど明るい茶髪とかで華やかな感じで。そんな中に私のような地味な黒髪の人がポツンといる。それは浮きますよね(笑)。特にいじめに遭ったとか無視されたというのではないんですけど、クラスに馴染めなくて、いつもひとりでいました」

彼女の語る言葉は、鮮やか過ぎるほどに絵が浮かぶ。まるで映画のワンシーンが上映されるようだ

そんな少しだけ孤独な女の子は、図書館やパソコンの授業が行われる教室に居場所を求めた。特にパソコンの先生との関係は緩やかで居心地が良かった。

「パソコンがずらーっと並んでいる部屋です。そこに私と女性の先生だけがいるんです。歳は、当時30代後半くらいだったでしょうか。特に話をすることはないんです。先生は先生でお仕事をされていて、私は小説を書いてました」

絵が浮かんだ。午後の長い陽が差し込む教室で、そろそろ中年に差し掛かった女性と、10代の女の子がポツンポツンと離れて座っている。広い教室には、お互いの叩くキーボードの音だけが小さく鳴っている。遠くから、ブラスバンドが練習している曲が聞こえているかもしれない。やがて夕暮れがやって来て、女の子は立ち上がり近づいて、「今日は小説が10枚進みました」と言い、先生は「そう?」とだけ言ってちょっと笑う。女の子は会釈して教室を出ていく。

「その空間が心地よかったんです。一定の距離感があって、お互い干渉はせずに、ただカチャカチャとキーボードを叩いてる。小説の内容ですか? その頃母が社交ダンスのインストラクターになるために、社交ダンスの教室に通い始めたんです。それで一時期ですけど、私と弟、妹も習わされたことがあるんですね。その時の社交ダンスの先生のことを書いてたんです。あの先生は外面はいい人を装ってるけど、裏ではドロドロと悪いことをしているというような、勝手な想像をして(笑)。身近にあった現実をちょっと変えて書いていた。むしろそれしか出来なかったんです。本当は完全なフィクションとか、面白いSFとかが書ければよかったんですけど。小説家になる才能はないなって思いました。ええ、でも書き上げました。そこそこ長いものでしたけど」

本人はそう言うけれど、高校生にして小説を一編書き上げてしまうというのがすごいと思う。そのモチベーションと持続するエネルギーの源は何なのだろう? そう尋ねてみると、池田さんは少しも考え澱むことなく、「たぶん、残しておきたい記憶だったりするんだと思います」と答えた。

「私、すごく忘れっぽくて、数年前にあったことも忘れちゃうんです。いい記憶も悪い記憶も、大丈夫かなって思うほど残ってない。例えば私は2年半前くらいまで結婚してたんですけど、結婚していた時に何があったかも、あまり覚えていないことがあって。誰かにディテールを尋ねられた時に咄嗟に出てこないことがあるんです。それは相手のことがどうでもよくなっているからなのか、本当に忘れっぽくて記憶が抜けちゃうのかは分からないんですけど。そういうことがあるので、残しておきたいと思うんじゃないかという気がします」

なるほど、先に彼女は過去の自分を語るとき、常に少しだけ「他人事」のようだと書いたけれど、それは記憶に留めてないからかもしれない。人の記憶というのは、反芻されて初めて定着するとも言われる。逆に言うと池田さんの場合、幼い頃から毎日日記を付けてきたので、それは紙に文字として定着した分、記憶に残らないのではないか?

他人事のように書いているけど実は僕も同じで、様々なことをすぐに忘れてしまう。僕の場合、原稿に昔の記憶を書くことがよくあるので、他人からは「よくそんな昔のことを細かく覚えてますね」と呆れられるのだが、それは単に文字の形で残っているにすぎない。親しくなった女性からは必ず、「あなたは自分に都合の悪いことから順番に忘れていく」と言われる。そう考えていくと、忘却に対する危惧や不安は、実は「書く」ということへのひとつのモチベーションなのかもしれない。

「もちろん、友達がいなかった反動というのはあったと思います」とも池田さんは言う。「10代の女の子としては、本来、友達がいた方が絶対に楽しいですよね。でもいなかった、クラスの誰ともコミュニケーションが取れなかったから、その分を書くことによって、誰かとしゃべる代わりに書いて、そこで自分を癒してたんだと思います」

そこでもうひとつ気づいた。先ほどのパソコン教室のくだりが顕著なのだが、池田さんの語る言葉は、時々鮮やか過ぎるほどに絵が浮かぶ。まるで聞いているこちらの脳内で、映画のワンシーンが上映されるようだ。つまり「忘れっぽい」が故に、定着した記憶は印象深く鮮やかなのではないか。

そんな彼女は中学だったか高校だったか(例によってよく覚えていない)の卒業文集に「将来の夢は小説家になること」としたためたものの、「書きたい」という気持ちを一時期封印することになる。

「それがものすごくミーハーな理由で恥ずかしいんですけど、高校生の頃にキムタク(木村拓哉)さんの『HERO』(フジテレビ系)というドラマにすごく夢中になってしまって、検事になりたいって思ったんです。それで法学部に行こうと。今思うと、『そんな簡単な世界じゃねーぞ』って当時の自分に言ってやりたいですけど(笑)」

国立の神戸大学と岡山大学、そして私立だが司法試験合格率の抜群に高い中央大学法学部を受験。

「神戸は落ちて、岡山と中大に受かったんです。金銭的な負担を考えれば授業料も安くて自宅から通える岡山を選ぶべきだったんですけど、でも、やっぱり東京へ行きたいと思って。それは、私を知ってる人がいないところに行きたいという気持ちと、都会への憧れというか、岡山の田舎にこのままいたら、私の人生変わらないんじゃないか、ずっと友達もいないままなんじゃないかって。それで、親に『お金をたくさん出してもらうことになるけど、東京に行きたいです』ってお願いして」

お父さんは元々穏やかで口数の少ない人なので特に何も言わず、そして幼い頃から「自分で仕事を持てるようにならなきゃだめよ」と言い続けていたお母さんは、「外に出て人間的に修業してきなさい」と、一切反対せず送り出してくれた。

学内誌での学生記者の体験が、書く仕事をしたいという気持ちを芽ばえさせてくれた

中央大学法学部は八王子市にある多摩キャンパスである。池田さんは東京といってもその外れ、埼玉県狭山市と隣接する西多摩郡瑞穂町にアパートを借り独り暮らしを始める。両親に「お金かかるんですけど、すみません」とお願いしたというが、家賃は払ってもらっていたものの、生活費はもちろん、3年生からは学費の大半もアルバイトでまかなった。

「バイトは色々やりましたよ。スーパーがけっこう長くて、年上のおばさま方に可愛がって頂きました。楽しかった。お弁当屋さんもやりましたね。あと、近所にスナックがあったんです。そこでも働いたし。塾の先生や家庭教師もやりました。あれは時給がいいんで、学費も払えたんですね」

このあたりが僕ら遊ぶために通っていたような、昭和の大学生とは違うとこだ。思わず「頑張り屋さんですねえ」と感想を洩らすと、池田さんは「頑張ってましたねー」と言ってから、「アハハ」と笑った。

そして、このように勉強とアルバイトと合気道に多忙だった池田さんに、再び「書く」ということに戻るきっかけが訪れる。

「学生食堂をよく利用してたんですね。そうしたら貼り紙に眼が止まったんです。『HAKUMON ちゅうおう(現在は『HAKUMON Chuo』表記)』の〈記者募集〉の貼り紙です。よく見たら〈応募動機〉みたいなものを提出する〆切が、翌日だったんです。だから急いで家に帰って書きました。学生記者になって何をやりたいか、というようなことです」

多摩キャンパスから瑞穂町までは約1時間かかったそうだ。これもまた絵が浮かんだ。久しぶりに文章を書くということに向かおうとする20歳の女の子が、窓の外の景色を眺めるのももどかしく、電車に乗っている姿である。

「『HAKUMON ちゅうおう』というのはいわゆる学内誌ですから、教授にお話を聞くとか、頑張っている部活の学生とかを取材して書くという、言ってみれば今やってるような仕事なんですね。なのでやはりそれが〈書く仕事〉をやりたいという気持ちを芽ばえさせてくれる、きっかけになったんだと思います」

季刊誌だったので年に4回、学生記者として記事を書いた。そして就職も当然のようにマスコミを志望した。ただし──、
「とにかく私の頭の中には、『anan』(マガジンハウス)の編集部に入って、『anan』の編集者かライターになりたい、それしかなかったんです。『anan』は岡山にいた頃から読んでました。〈セックス特集〉に代表されるように刺激的な特集が定期的にあって、他に『non-no』なんかも読んでたんですけど、それはあくまでファッションの参考にするくらいで、全然違って思えたんです。その点『anan』はジャニーズ系のタレントさんのヌードを載せるとか、ヴィジュアルも刺激的で、ついついページをめくってしまうような、他の雑誌にはない魔力みたいなものがありました」

だから出版社はマガジンハウスだけしか受けなかった。しかし残念なことに筆記試験の段階で落ちてしまう。

「もう、こうなっていて」と顔の前で両の手のひらで〈視界が狭くなっているポーズ〉をして、「だから他に集英社とか講談社を受けてみようという頭もなくて、ちょっとヤバイ人ですよね」と笑う。

「だから『anan』がダメなら、次に興味のあるインターネットの業界でいいかという、ものすごく安直な発想で。それで運良く楽天には就職出来たので、今もそうかもしれませんけど、当時はすごく勢いのある企業でしたし、ITがこれから伸びていくのは当然でしたから、気持ちを切り替えて頑張っていこうと」

それでも楽天の中でも何かマスコミ的な仕事に就けないかと、池田さんは楽天のポータルサイトである「インフォシーク」を志望、そして配属となる。

「〈インフォシーク〉は特集とかもやっていたので、がっつり『書く』というわけではないけれど、何か『読むもの』を作れる可能性があるかもと期待してたんですが、ただ私が担当することになったのは〈Infoseekニュース〉という部署で、いわゆる〈Yahoo!ニュース〉のような、各配信社から送られてくるニュースを扱うところでした。なので仕事は、新人だということもあって配信社の方とのやりとりとか、後はせいぜいユーザーインターフェイスを変える、つまり見る人がユーザーの人がいかに見やすい画面にするかとか、いかに読みやすい文字の間隔にするかとか、そういう打合せに参加するくらいで。ええ、そうですね、正直なところそれほど自分のやりたい仕事ではなかったかもしれません」

そのせいか著書『フリーランスで食っていきたい!』(ぱる出版)には、「インフォシーク」という時代の最先端的部署に入れたこともあり、浮ついた気持ちでお洒落にばかり気を使い、女性の先輩からたしなめられるという記述がある。

「お給料がすごくよかったんです。初任給で30万円、そこから色々と引かれても手取りで25万円。スーパーとスナックでバイトしていた頃では想像も出来なかったお金がもらえたので、買い物が楽しくなって、学生時代には絶対に買えない服とか買って舞い上がってました」

結局、楽天は1年8カ月で退社する。今思えば自分主体で積極的に動いて上の人に真剣に提案したりするべきだったけれど、当時はそんな発想すらなく、仕事を楽しめないままに終わってしまったという。

それが2011年のこと。前年くらいから、ソーシャルメディアが流行り始めていた。池田さんもツイッターとフェイスブックを始め、特にフェイスブックが面白いと感じていた。楽天時代から次のステップ考えていた彼女は、秘かに転職サービスにも登録していた。そこでフェイスブックを使った新しい事業を始める企業があると知る。現在、クラウドソーシングやクラウドメディアサービスを提供している「リアルワールド」という会社だった。彼女は「ここだ」と思って転職する。SNSを使ったコンテンツ作りが出来ると思ったのだ。ところが入社して間もなく、フェイスブック側の規制に変更があり、同社がやろうと企画していた事業内容がそのルールに引っかかり出来なくなってしまったのだ。

しかし偶然にもそこに、池田園子さんのフリーライターへの入口があった。

(後編へ続く)
ライターズ(Writers)〜「書く」ことを職業にした人々~ 第4回 池田園子(WEBライター/編集者)後編


写真=川上 尚見
文=東良 美季

#CULTURE

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