中国・深セン市が巨額を研究に投資する理由とは? 科学者とSF作家が語る“ゲノム”真論(前編)

 近年、ニュースなどで“ゲノム編集”というワードをしばしば耳にするようになった。また、2018年度から“がんゲノム医療”が本格的にスタートした。これは、がん患者のゲノムにある遺伝情報を調べ、一人ひとりに最適な治療薬を選ぶというものだ。患者の細胞を取り出して遺伝子操作をし、治療に役立てる遺伝子治療の実用化は日本ではこれまでほとんど進んでいなかったが、2018年1月に創薬ベンチャーのアンジェスが厚生労働省に承認申請した遺伝子治療薬が承認されれば、国内初となる。一方、欧米では、すでにがんなどの難病に対する遺伝子治療薬が続々と登場。そればかりか、自分の体にゲノム編集用DNAを注射して人体実験を行う“バイオハッカー”まで現れ、話題を呼んでいる。バイオ産業がゲノムというキーワードを軸に大きく揺れている今、議論すべきポイントはどこにあるのかーー。

 2012年、遺伝子設計された作物が生産される近未来を描いたSF小説『Gene Mapper -core-』(2013年に早川書房から『Gene Mapper -full build-』と改題して出版)が、個人出版の電子書籍ながらベストセラーとなった作家・藤井太洋氏と、東京工業大学生命理工学院で最先端のゲノム研究にあたる相澤康則准教授が、同大学の相澤研究室にて、ゲノムについて語り合った。

『Gene Mapper -full build-』
藤井太洋著/ハヤカワ文庫JA
拡張現実が社会に浸透し、フルスクラッチで遺伝子設計された蒸留作物が食卓に上がるようになった近未来。ある日、遺伝子デザイナー・林田は、L&B社のエージェント・黒川から自分が設計した稲が遺伝子崩壊した可能性があると連絡を受け、原因を究明することに。やがてハッカーのキタムラの協力を得た林田は、黒川と稲の謎を追うべくベトナム・ホーチミンを目指す。もともとは電子書籍の個人出版だったが、こちらは増補改稿完全版。

SFのワード感覚が“ゲノム”を再定義する

藤井太洋(以下、藤井) そもそもの話、DNAとゲノムと遺伝子の違いを知らない人が多いですよね。学校で習うのは染色体ですし。

相澤康則(以下、相澤) そうなんです。そこがわからないと話が通じない。DNA(デオキシリボ核酸)は物質名で、ゲノムも遺伝子もDNAという物質からできているという点では共通していますよね。ヒトの生命現象は、約2万個の遺伝子によって支配されていますが、その2万個の全遺伝子をひとまとまりでゲノムと呼びます。要するにゲノムは、その生物種に必要なすべての遺伝子情報を含む1セットのことを指すのです。ゲノムは情報であり物質であって、光が波であり粒子であるというのと相通じると思っています。モノとコトの両面性を持っているともいえますよね。そこが面白いわけですが、藤井さんはこうした生物学のことをどのように勉強したんですか?

藤井 一般書を読んで学びました。つい先日も、ピュリッツァーを受賞したコロンビア大学の医学者であるシッダールタ・ムカジーさんの『遺伝子ー親密なる人類史ー』(早川書房)を読みましたよ。

相澤 いつから興味を持ったんですか?

藤井 20歳前後だった91年頃からですね。当時、通っていた大学は教養学部だったのですが、学生会館にいた先輩たちが、大ベストセラーになったリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』(紀伊國屋書店)を持って、「これ、知っているか?」とマウンティングを取ってきたんです(笑)。そこからリチャード・ドーキンスやスティーヴン・ジェイ・グールドをひたすら読み始めました。

相澤 そうだったんですね。僕が『Gene Mapper』をすべて読み終えたところで、まず伺いたいと思ったのは、タイトルのこと。どうしてこの書名になったのですか?

藤井 “マッピング”という言葉を使いたかったんです。もともとは遺伝子(gene)を読み取る時に使う単語ではあリますが、遺伝子を書く人も“エディット”や“書く”のではなく、地図を描くような、“マッパー”と呼ばれるような感覚の転換があってほしいと思いました。

相澤 我々のような実際の研究の世界で“ジーン・マッピング”というと、大体どのあたりに遺伝子があるのか突き止めることを指します。だから、『Gene Mapper』というタイトルを見て、最初は一世代前のゲノム研究者の話なのかと思いました。でも、読んでみたら違って、ゲノム研究をウラのウラから見ているような点が面白かった。遺伝子を描く人という意味での“マッパー”なんですね。

藤井 そういうことなんです。

相澤 康則(あいざわ やすのり)
1970年、横浜生まれ。東京工業大学生命理工学院准教授。ヒトゲノムの中で機能がまだ不明の非コード領域を研究する。ゲノムを人工的に合成することで、ゲノムに刻まれたDNA配列の意味を解き明かすことを目指す国際プロジェクト「Genome Project-write」や、ビール酵母の全ゲノム合成を推し進める国際プロジェクト「Sc2.0」に参加。


相澤 言葉に関連した話ですが、近年、メディアでよく耳にする“ゲノム編集”という言葉は、僕はあまり好きじゃないんです。“編集”というと、もっとダイナミックに変えるものだと思いますが、“CRISPR(クリスパー)”と呼ばれるゲノム編集技術は、ゲノムの長い領域のほんの一部を変えるだけ。それはだから、“エディット”というより、一文字変えるくらいの、いわば“ゲノム校正”だと思っています。一方で、『Gene Mapper』で描かれていたようにフルスクラッチ(既存のものを組み立てるのではなく、新たに作成すること)で遺伝子をデザインする場合は、“構築”や“アーキテクチャ”といった言葉が合っている気がしますが、藤井さんはゲノム編集の現状についてどう思っているんですか?

藤井 クリスパーは画期的といえば画期的なので、あれを“エディット”と呼びたい気持ちはすごく分かるんです。ウイルスベクター(遺伝子組み換えの際にウイルスを用いて組み換えをしたい細胞に感染させること)とはレベルの違う正確さがありますよね。しかも、DNAを切る場所も指定できます。能動的にDNAを切って、そこに目的の塩基を再接合させることは、アナログフィルムの編集のような一次元的な編集に近いともいえる。

相澤 ということは、フルスクラッチは編集のもう一段階上ですね。

藤井 そう思います。“生命創造”というと、また別の視点が必要だと思いますが、『Gene Mapper』では無駄なものを全部省いてつくられた作物を“蒸留作物”と呼んでいます。

相澤 そうでしたね。やはりSF作家の方のワード感覚は新鮮で参考になります。

アーティストがゲノムの世界に流入するメリット

相澤 その作物の遺伝子を書く人として“ジーン・マッパー”という言葉が作品内で使われていますが、こういう言葉は研究者からは出てこないでしょうね。サイエンスの外にいる、芸術に関わる方たちこそ、今のゲノムをもっと表現してほしいんです。というのも、科学者の想像力ってものすごく貧弱なので……。

藤井 同感です。遺伝情報は「DNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質」の順番で伝達されるというプロセスに“セントラルドグマ(=分子生物学の中心原理または生物学の中心教義)”と名前を付けている時点で、「お願いだから、ドグマという言葉を辞書で引いてくれ」と(笑)。全然そう呼べるものではないですから。

相澤 なかなか言えないことですが、まさにその通りです(笑)。科学はこれまでの研究の積み重ねで成り立っているものなので、過去の研究者たちをリスペクトしないとならないのですが、僕はそれを否定することもリスペクトのひとつだと思っています。とはいえ、僕みたいな雑魚が大御所に立ち向かっていくのは、やはり難しいところも……。でも確かに、あれをセントラルドグマといってしまうと、その後に新しい発見があっても、研究の重心をシフトさせるのは難しくなります。もちろん、最初にその言葉を使い始めた科学者は闇の中から原理の原石を見つけ出したしたわけで、それはそれで当然ひとつの功績ではありますが。

藤井 言葉としては、“セントラルプロセス”や“セントラルルート”の方が合っていたかもしれませんね。それはともかく、人文系のフィクションを書いている人たちがもっと科学に首を突っ込んでもいいんじゃないかと。こと生命科学に関して、ヒトのゲノムに触る過程に関しては、そうであっていい気がします。

藤井 太洋(ふじい たいよう)
1971年、奄美大島生まれ。2012年、ソフトウェア会社に勤務する傍ら執筆した個人出版の電子書籍『Gene Mapper』でデビュー。2015年、『オービタル・クラウド』(早川書房)で第35回日本SF大賞を受賞した。


相澤 ゲノム系のSFを書いた作家の方というと、僕は藤井さんしか知らないのですが、ほかにもいらっしゃるんですか?

藤井 ゲノム系ではないですが、瀬名秀明さんは「ミトコンドリア・イブ」という言葉を人口に膾炙させたバイオ・ホラー小説の『パラサイト・イヴ』(新潮社)を書かれました。

相澤 その本の存在も知ってはいましたが、実は、最初から最後まで読んだSF小説は『Gene Mapper』が初めてだったんです。というか私はこれまで、そもそも実用書は読むものの、小説はほとんど読まなくて……。そんな僕が言うのも生意気ですが、『Gene Mapper』は最後に近づくほど密度が濃くなっていくように感じました。2038年という舞台設定もリアリティがあります。

 先ほどお話ししたように、科学者の想像力は貧弱で、ゲノムを書くことができる今という時代は、もしかしたら想像力より科学の方が先に進んでいるかもしれません。でも、これまではずっと、想像力が先にありました。映画の『2001年宇宙の旅』(1968年)や『ジュラシック・パーク』(1993年)も、「そんなこと、できるの?」というシーンがあって、科学はそれに追いつこうとしていた。現に、ハーバード大学の研究チームがマンモスのDNAを近縁種のゾウの細胞にコピーすることでマンモスっぽいゾウを生み出すと言っています。だから、僕も藤井さんと話すことで、もっと具体的なプロジェクト課題が生まれるんじゃないかと思っているんですよ。

 ちなみに、2016年に「ゲノムプロジェクト・ライト(Write)」(ゲノム計画―ライト)がアメリカの研究者を中心に立ち上がりました。現在、アメリカのほかに中国、イギリス、シンガポール、オーストラリア、韓国など世界15カ国、約200人のメンバーが参加しています。でも、そのメンバーたちに「何をするの?」と聞くと、大した答えが返ってこない。やはり何十億円もの大きなお金が動くプロジェクトは失敗できないから、無難なチャレンジしかできないというのがこの分野の現状です。そんな中で「フルスクラッチでゲノムを書き換える」と言っても、実際はしばらく実行に移せない可能性が高いんです。こういう時こそ、文学やアートの方に科学の世界へ入っていただきたい。最近流行っている“バイオアート”(培養細胞工学・遺伝子工学などの手法を取り入れたり、生命科学やテクノロジーの進化が招く哲学的・倫理学的な問題を描いたりしたアート作品)も面白いじゃないですか。

藤井 アートのような視覚的な作品を手がけている人にも、どんどん入ってきてほしいですね。

ヒトゲノムをめぐるキリスト教的倫理と新しいルール

相澤 ところで『Gene Mapper』では、遺伝子設計により生まれた人工の稲を生産するL&B社のエージェント・黒川が、環境保護活動家のゴーフに対して言った「科学の恐怖をあおり立てても、何も解決しませんよ。〈中略〉交流によって生まれる豊かな未来に賭ける気はありませんか?」(340ページ)というセリフがありますよね。これは藤井さんの本心ではありませんか?

藤井 本心ですね。

相澤 このセリフには引き込まれました。原子力もそうですけど、トンガっている技術ほどデュアルユース(民生用と軍事用の両方で利用すること)が可能ですから。科学者としては好奇心が前に出てしまうけど、常に倫理とのバランスを意識しないといけないと思っています。そのあたり、どう考えていますか?

藤井 ヒトゲノムに関しては、アメリカ一国だけが先進国だった頃はキリスト教的な倫理しか抑制するものがなかったので、ヒトの胚をどの段階から触っていいか、どの段階からはダメかといったルールがあるくらいで、科学者はそれほどナーバスになることもなかったと思うんです。しかし、今後は中国が入ってきて、ルールがどんどん動くでしょう。本来、キリスト教的倫理においては受精卵を編集することはできなかったので、2017年にようやく初めてその実験が行われましたが、中国ではすでに2015年に不妊治療で不要になった受精卵を使い、クリスパーで編集実験をしましたよね。現実的に競争が始まると、各国ともいつまでもモラトリアムの状態ではいられない。

様々な器具が置かれている相澤氏の実験室。

相澤 現状では、マイコプラズマのゲノムを作り出したり、大腸菌のコドンを減らしたり、酵母の染色体を作ったりと、アメリカのゲノム研究が最も進んでいますが、確かに中国も追い上げています。

藤井 お金がありますからね。中国ではSF小説も国から支援されているんです。もちろん国のお金が投入されることで忖度が働くこともあるんでしょうけど、進歩も目覚ましい。2015年に劉慈欣(リュウ・ジキン)のSF小説『三体』が、世界で最も権威があるSF・ファンタジー文学賞のヒューゴー賞を獲っています。そもそも翻訳を対象としない文学賞に翻訳小説が受賞するのは珍しくて、しかもアジア人です。アメリカでは“オバマ前大統領が就任中に読んだ10冊の本”のうちの1冊としても話題になり、バカ売れしました。また、先日、僕も参加した四川のSF大会では、共産党幹部が多数登壇して、「いかに人民を前進させるためにSF小説家たちが必要か」といった演説をしていましたね。

相澤 2017年末、「GPライト チャイナ(国際ゲノム編集プロジェクト・中国)」という組織が立ち上がりました。経済特区の深セン市に中国科学院深セン先進技術研究院があるのですが、そこに深セン市がGPライトチャイナのセンターをつくるだけのために約350億円を投資すると発表したんです。日本とは投入されるお金のケタが違います。そのセンターを運営している長が私の友人で、私はキックオフ会議に招待されて出席したのですが、会議の最後に、中国のゲノム科学をこれまで支えてきた長老の研究者たちが「今、お金があるからといって、ずっとあると思うな。産業応用も重要だが、必ず基礎科学に成果をもたらすよう問題設定しなさい」というようなことを仰っていたんですよ。それを聞いて感動しましたね。お金があっても浮足立ってないんです。さすが中国です。

藤井 地に足がついてますよね。

相澤 ただ、日本にも慶應義塾大学の板谷光泰先生のようなゲノム科学のパイオニアがいらっしゃいますし、ゲノム科学全般でも日本は優れています。染色体生物学においても世界をリードしている先生が日本に多い。DNAシークエンシング(DNAの塩基配列を決定すること)に関してはテクノロジーではアメリカが勝っていますが、ゲノムベーシックサイエンスについては日本はまだ強い。そしてゲノム科学は、それだけにとどまるのではなく、ケミストリー、ナノテクノロジー、半導体技術などの日本の強みと組み合わせていけば、どんどん広がっていく。そういう意味でゲノム工学は、まだまだ日本が世界をリードできる分野だと僕は楽しみにしています

(後編へつづく)
編集治療の責任は誰が負うべきなのか? 科学者とSF作家が語る“ゲノム”真論(後編)


構成=安楽 由紀子
写真=山本 光恵
企画・編集=中矢 俊一郎

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